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「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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posted2025/01/17 06:02

「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」<Number Web> photograph by KYODO

阪神大震災の直後に開催されたセンバツ甲子園で勝利し喜ぶ報徳学園ナイン。「被災地からの出場校」という立場で、監督は何を思ったのだろうか

 さらに震災で気づかされたこともあった。1月17日。地震直後に安否確認のため原付バイクに乗って移動したが、最初は原付バイクではなく車で出ようとしていた。だが、駐車場に段差ができ、片輪がはまって車が動けなくなっていた。1人では動かすことが不可能な大きな段差だった。途方に暮れていると、近所に住む数人の住民が一緒に車体を持ち上げて車を動かしてくれたのだ。

「あの時は本当にありがたかったです。それでも原付の方がいいと思って車は使わなかったんですけれど、火事場の馬鹿力というか、そういう底力を持っているんです。そういう力を引き出すのも我々指導者の仕事なのかなと思っていて」

 子供の見えない力を引き出すことは難しい。それでも学校が変わった今も、報徳学園時代に大事にしてきた“全員野球”は変わらないモットーとして持ち続けている。令和の時代になり、指導方法や選手たちとの接し方のアップデートが問われる中、全員としっかり向き合い、平等に接する。その中で彼らの表情から何を読み取れるのかを大事にしている。ただ、子供の資質が変わっても、そのまま変えないでいたいこともある。

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「今はネットが普及して、授業でもiPadを使うことが当たり前になってきました。今は連絡手段がいくらでもありますし、仮に学校を休むにしてもLINEで簡単に連絡ができますよね。それでも僕は、自分で必ず電話をしてくるようにと言っています。親や友達でなく、自分の声で伝えろと。昭和ですかね(苦笑)。古臭いと言われるかも知れないですけれど、生の声を聞きたい。指導方法は変えても、そこだけは変えたくないんです」

「あのセンバツ大会は開催して良かった」

 それはあの時、必死に電話を通して生徒の声を確認していた自分の姿が、まさに“原点”となっているからだ。

「決断としては半々に分かれていたと思うんですよ。こんな状況でセンバツを開催しても大丈夫なんかって、あの場にいた者からすれば当然そう思いました。でも後々考えると、復興などのことも思えば、あのセンバツ大会は開催して良かったと思うんです」

 未曾有の大災害から30年。今ではすっかりベテラン監督として名をはせるが、指導の根本的な部分は変えていないという。

「大事なところは大事にしていきたいですね。一番大事なのは昭和の部分かな。それでも選手の思いは大事にしたい。あの経験を根本にして考えるのは遠回りなのかなとも思いましたけれど、今思うと“近回り”だったと思っています」

 そう言って、永田監督はふと笑みを浮かべた。

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「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」

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