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「寮の食事は冷えていて…」青学大で“クビ寸前”だった原晋監督「サポート体制は未熟でした」原チルドレン1期生が語る“弱かった青学大”のリアル
posted2025/01/14 11:00
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
Takashi Shimizu
「当時は原監督のことなんて何も知らなかった」
「本命がいて、僕はオマケでしたね」
現在は愛知県のみよし市役所に勤務する、横田竜一さんがそう振り返る。
2003年の夏、彼は将来の岐路に立っていた。当時、中京大中京高の3年生。寮に入り、陸上部で長距離に打ち込んでいたが、それまで大学からスカウトの話は来ていなかった。5000mの自己ベストは15分フラット。自分でもこの記録では厳しいだろうと思っていた。
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そこに福音が舞い込む。青学大から選手を2人獲りたいとの連絡だった。
「本命は川口将宏っていう僕の同級生。で、もう一人獲ってくれると。高校の監督は僕ともう一人で迷っていたらしいんですけど、最後は『お前の方が飯をたくさん食えるな』って理由で推薦してくれたとか(笑)。正直、青学大のことは名前も知らなかったです」
横田さんが戸惑ったのも無理はない。青学大は当時、30年近く箱根駅伝出場から遠ざかっていた。陸上選手にとってなじみのある大学名ではなく、中京大中京高から陸上で進んだ先輩もいなかった。
なぜ突然、スカウトの話が降って湧いたのか。簡単に言えば、こんな経緯だった。
青学大の陸上部が新しい監督を招いた。名を、原晋という。中京大中京高の陸上部を率いる川口孝志郎監督は、原監督と同じ中京大のグラウンドで共に汗を流したことがあり、親しい間柄だった。川口氏は1983年の世界選手権にマラソン日本代表として出場した名ランナー。選手集めに困った原監督が、母校の系列校で指導を行う先輩を頼ったのだ。
「担任の先生も『学業のいい大学だから行ったほうがいい』と勧めてくれました。僕は高校から陸上を始めたんですけど、もちろん箱根駅伝には憧れていて、関東の大学ですからチャンスはあるだろうと。ただ、当時は原監督のことなんて何も知らなくて。陸上部の寮に入って、そこで初めて顔を見たくらいですから」