甲子園の風BACK NUMBER
「甲子園のための売名なんやろ」の声も…30年前、阪神大震災後の“ある強豪野球部”のリアル「とてもじゃないけど甲子園なんて開催できない」
posted2025/01/17 06:00
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by
(L)本人提供、(R)JIJI PRESS
30年という時間はひと昔と表現する人がいれば、決して遠い記憶になっていない人もいる。ただ、30年前に身に起きた出来事が心に深く影を落とすことだったら、どう感じるだろうか。
「毎年あの日が来るたびに早いなと思いますが、1日1日で考えると“まだ30年なのか”とも思いますね。あの大会は本当に忘れられない大会だったので」
ひとつひとつの言葉を嚙みしめるように口にしたのは、かつて神港学園の野球部監督として36年間チームを率いてきた北原光広だ。
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82年に神港学園の監督となり(当時は私立神港高校)、84年のセンバツでチームを初の甲子園に導くと、92年には夏の甲子園にも出場し、甲子園で2勝を挙げている。
報徳学園、東洋大姫路、育英(93年夏に全国制覇)といった強豪私学としのぎを削り、退任した2018年まで春は5度、夏は3度、チームを甲子園に導いている。
その中で3度目のセンバツ出場権をかけた94年の秋の近畿大会では準優勝し、翌春の95年の第67回センバツ高校野球大会の出場も有力視されていた。
センバツ有力だった名門校を襲った「大震災」
1995年。いつものように年が明け、待ちに待った夢の舞台へ向け冬の練習を重ね、センバツ出場校発表の2月1日へ向け、カウントダウンをしていくはずだった。
1月17日。神戸市から40キロほど離れた高砂市にある自宅で、いつものように幼い娘と妻と川の字になって寝ていた北原は、早朝に微動を感じ目が覚めた。
「最初は横揺れだったかな。それがだんだん強くなってきて、娘が”お母さん怖い“って言って妻にしがみついたんです。僕が“大丈夫やで”って娘に言わないとアカンのに、僕はなぜか毛布をかぶってしまって。自宅は2階のテレビが少しずれたくらいでしたけれど、とっさにテレビをつけたら神戸の方が震度が大きいと分かって」
当時、部内には岡山出身のマネージャーがおり、神戸市内の祖父の家に身を寄せていたため、安否が気になった。しばらくしてマネージャーとようやく連絡が取れると、神戸市内の福住小学校に避難していると聞いた。