甲子園の風BACK NUMBER
「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」
posted2025/01/17 06:02
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by
KYODO
日大三島高野球部の永田裕治監督は、高校野球の監督となって昨年でちょうど30年になった。中京大を卒業後、大阪の桜宮高校でコーチとして指導し、母校でもある報徳学園でもコーチを4年間務めた。94年4月に監督となり、2002年のセンバツで優勝するなど甲子園では通算23勝を挙げた。その後、17年3月に報徳学園を退任し、20年4月から日大三島の監督に就任した。
日大三島に出向いて5度目の年末となった2024年暮れ。永田監督の姿は帰省先の地元・兵庫県西宮市にあった。
「12月に体調不良の子らが多く出て、今年の年末は早めに(年末年始の)休みに入ったんです。だから、年明けは少し早めに(三島に)戻りますけれどね」
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年が明けた1月には、永田監督にとって忘れられない日がやってくる。
1月17日。阪神大震災から30年となるその日を、どのような思いで見つめているのか尋ねると、永田監督はこう言葉を発した。
「自分の指導者人生の原点になった大会でした。色んな意味でね」
センバツ大会出場の重要な参考資料となる前年の秋季大会は、永田監督が監督となって初めての公式戦采配だった。県大会では決勝戦で神港学園に敗れたものの2位で近畿大会に出場。8強まで勝ち進み、センバツ大会への望みを何とか繋いだ格好で終えていた。
「ものすごい揺れで、本棚が倒れ…」
1月17日。実は永田は名古屋に出張することになっていたが、体調不良のため直前にキャンセルし、自宅で就寝していた。そして早朝に激しい揺れに襲われた。
「風邪気味だったので、その日はいつもと違って家族と別の部屋で寝ていたんです。ものすごい揺れで自分の部屋では本棚が倒れました。私は大丈夫でしたけど、家族の部屋はタンスが子供らに倒れてきて……。観音開きの扉が開いて、扉がつっかえ棒のようになって子供らに覆いかぶさらずに済んだんです。もし扉が開いていなかったら命がなかったかもしれないですね」
とっさに飛び起き家族の安全を確認。その後、被害が西宮だけではなく、芦屋、そして神戸と広範囲に及んでいることが分かる。
教え子の安否確認のため、気がつけば原付バイクに飛び乗っていた。