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「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」 

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沢井史

沢井史Fumi Sawai

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posted2025/01/17 06:02

「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」<Number Web> photograph by KYODO

阪神大震災の直後に開催されたセンバツ甲子園で勝利し喜ぶ報徳学園ナイン。「被災地からの出場校」という立場で、監督は何を思ったのだろうか

 西宮市の自宅を出て、西に向け原付バイクを走らせた。夙川、芦屋川と川を越えるごとに景色が変わっていくのを目の端で感じた。倒壊した家屋や折れ曲がった街路樹が左右に続き、時にはがれきの合間を縫って走り抜ける。そしてぐにゃりと折れ曲がった阪神高速道路の高架の横を、無心で走っていた。こんなことがあるのか……。教え子の自宅の住所を頼りに、あちこち回ったが、もちろん1日で全員の安否確認は取れなかった。

「僕は戦争を知らないですけど、戦争当時はこんな状況だったのかなと思いました。倒れたり、屋根が押しつぶされたりしている家が並んでいて……神戸に近づくごとに、そういう景色が広がっていって」

 報徳学園のグラウンドにも状況を見に行くと、いくつか亀裂が走っていた。

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 夕方になっても余震が続いていたため、幼い娘が自宅内で寝るのを怖がり、17日当日の夜は家族を車に乗せ、母校のグラウンドの真ん中に停めた。恐怖に怯えながら、車の中で一夜を明かした。

 大変だったのは連絡手段だった。当時は携帯電話が普及しておらず、固定電話も回線が寸断され、公衆電話が頼みの綱だった。

「あの頃は公衆電話があれば前に人がものすごく並んでいました。10円玉をたくさん持って電話を掛けるんですけれど、すぐに時間が来て切れてしまうんですよ。電話の上に10円玉を重ねて置いてね。生徒らにどれだけ連絡できるのか、もう必死で」

 最寄りの阪急線は、一部は運転していたが西宮北口から神戸方面は復旧の見込みは立たず。JRは大阪方面からは甲子園口駅までの運転に留められていた。神戸方面へ行くには代替バスを使って北側の三田市方面に迂回して移動するしかなかった。

「グラウンドには亀裂が走っていて…」

 もちろん、地震後数週間は野球どころではなかった。監督になって初めての冬。当時、31歳だった永田は状況の推移を見守るしかなかった。

「ウチは近畿大会では準々決勝で負けたので、そもそもセンバツに出場できるのか微妙だったんですよ。あの頃は練習時間も確保できなかったし、グラウンドには亀裂が走っていてまともな練習もできなかったですからね。それでもしばらくしてから少しずつ練習できるようになって、彼らがボールを握りしめてキャッチボールをした時の顔が忘れられないですね」

【次ページ】 被災後の甲子園で感じた「平等に練習させる」大切さ

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