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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「キク、達川を助けてやってくれ」あの星野仙一が涙を流し…中日の“伝説”左腕が振り返る「闘将秘話」と壮絶半生「ミツバチにわざと腹を刺させて…」
posted2025/01/16 11:04
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
BUNGEISHUNJU
中日の本拠地・バンテリンドームから約200m。かつての古巣の“お膝元”にあるわらび餅屋「喜来もち ろまん亭」で、山田さんは毎日店頭に立ち続けている。プロ野球選手のセカンドキャリアとしては珍しい和菓子の専門店を始めて12年目。昨年の暮れ、取材に訪れた際は、仕込みから仕上げ、販売の接客まで自ら立ち働きながら、正月に多くの初詣客が訪れる熱田神宮での出店に向けて忙しく準備を進めていた。
井上新監督との「同期の絆」
「やっぱり嬉しかったです。同期入団でずっと一緒にやってきましたからね」
目を細めた話題の主は、新シーズンからドラゴンズの指揮官として船出した井上一樹監督だ。同じ1989年ドラフトで、井上監督は中日の2位指名、山田さんは同5位指名を受けて共にプロの門をくぐった。井上監督は入団時は投手だったため、同じ高卒入団、同じ左投手の2人は盟友にしてライバルだった。
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「素晴らしいボールを投げるな、というのが第一印象。球自体は向こうの方が数段速かったので、僕なんかかないっこないな、と思いました。ライバル意識はありました。よく一緒に食事にも行きましたし、“同級生”で頑張っていこう、とお互い励まし合っていました」
忘れられない「あの涙」
先にブレークしたのは山田さんだ。愛知・東邦高時代は、エースとして3年時の1989年に春のセンバツ大会で初優勝。地元出身の期待を受けてリリーフとして1年目から一軍で17試合に登板した。一方で、当時の井上監督は投手としては苦労した。
「2年目だったかな。一軍に上がってきて投げた試合でフォアボールを出して、帰りのバスの中で彼、泣いていたんですよね。ストライクが入んなくて。僕は何も言えなくて、そっと肩を叩くくらいしかできなかった。マウンドでは誰も助けてくれない。プロに入ってその怖さを、お互いに実感していました」
井上監督は投手としては結果を残せず、野手に転向。そこから這い上がって結果を残していく姿を山田さんも間近で見ていた。
「とにかく彼は明るいし前向き。だから選手とのコミュニケーションは上手いと思う。去年まで最下位だった悔しさもあると思うし、本当に頑張って欲しいですね」