甲子園の風BACK NUMBER
「戦争ってこんな状況だったのかな…」30年前、阪神大震災直後のセンバツ出場校監督が振り返る“あの時”「それでも…開催して良かったと思います」
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph byKYODO
posted2025/01/17 06:02
阪神大震災の直後に開催されたセンバツ甲子園で勝利し喜ぶ報徳学園ナイン。「被災地からの出場校」という立場で、監督は何を思ったのだろうか
ただ、センバツ開催が決まった2月21日の時点で練習はほとんど出来ていなかった。
「周囲の話を聞く限りでは(共に出場していた)神港学園や育英に比べて、ウチは明らかに遅れていました。でも組み合わせ抽選で決まった日程は6日目の第1試合でした。1回戦最後の試合だったので、それはとてもありがたかったです」
当時は復興による大型車の交通手段を優先するため、チームはバス移動ではなく公共交通機関を利用することになっていた。大阪市内の宿舎に泊まる各校の選手たちが甲子園へ向けて電車移動する中、報徳学園ナインは学校から数キロ離れた甲子園口駅近くの宿舎で寝泊まりし、試合当日は自転車で甲子園球場に向かった。宿舎を出て甲子園口駅前の商店街を駆け抜けていると、近隣住民が何十人も商店街の両側で列になり「頑張ってね!」と声援を送ったという。
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「あの声援は本当に嬉しかったです」と永田監督は感慨深げに振り返る。地元からの熱い応援を背に受け、チームは北海に4-3で勝ち、初戦を突破した。
「正直、育英や神港学園が初戦に勝っていたのでプレッシャーはありました」と永田監督は振り返るが、この1勝が永田監督にとって記念すべき甲子園1勝目となり、生涯忘れられない大会となった。
被災後の甲子園で感じた「平等に練習させる」大切さ
ただ、永田監督にとって、甲子園でのひとつひとつの場面よりも困難な中で必死に前を向き、白球に触れたありがたさを体現していた教え子たちの姿が最も忘れられないという。
「2月の……何日頃だったかは覚えていないんですけれど、グラウンドでボールを使った練習ができるようになった時、子供らが“野球って楽しい”っていう顔をしていたんです。野球がうまくても下手でもそれぞれの生徒に野球人生があると私は思っているので、全員、同じように平等に練習をさせてやることが一番だと。この時に強く感じたんです」
報徳学園は、有望な選手ばかりが厳選されて入学してくる訳ではなく、中には野球経験がほとんどなく、いわば初心者に近いスキルの子も入部を志してくることも多い。
「それでも甲子園に行きたくてウチを志して来てくれた子がほとんど。ウチは全員野球がモットーなので、全員に平等に練習をさせてあげたいと思いました。震災に遭った直後にそれを訴えるとそれは難しいと言われましたが、震災をきっかけに、という訳ではないですが、そういう子たちでも目標を持たせてやりたいなと。そう思ったのがあの春でした」