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「ビリなのになんで笑顔なの?」青学大“箱根駅伝33年ぶり復活出場”で「気分は優勝」の最下位ゴール秘話…原晋監督も「お祭り気分でいいから」
posted2025/01/13 11:03
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph by
AFLO
青学大の8回目となる総合優勝で幕を閉じた101回目の箱根駅伝。もはや“令和の常勝軍団”となった同大だが、その活躍は2009年に原晋監督がチームを33年ぶりの箱根路に導いたことからはじまった。結果こそ完走チーム中最下位の22位だったが、この時、確かにフレッシュグリーンの新たな一歩が印された。その大金星のウラには、一体どんな秘話があったのだろうか。《全2回の2回目/最初から読む》(初出:Number 992号/2019年12月12日発売 肩書などはすべて当時)
どん底の状況を脱するべく、翌2008年には主将になった檜山雄一郎が中心となって朝練習の時間を早めたり、寮で2人2部屋制を導入したりと改革を敢行した。
「僕らが1年生の時はルールが緩かったんですけど、2年になって厳しくなり、3年時でさらに厳格になった。なかなかスポットライトを浴びませんが、ずっと我慢しながら改革をしたのは1個上の檜山さんたちの代。あの代がいなかったら、僕らが箱根に出ることもなかったと思います」(2009年の箱根駅伝でアンカーを務めた宇野純也)
競技面でも好成績が相次いだ。関東インカレ・2部では、1500mで荒井輔が、800mで岡崎隼也が優勝を果たし、3000m障害では3人が入賞。本戦に出られるという手応えをもって予選会に臨んだ。
自信があった前年度の予選会…まさかの結果は?
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ところが、その予選会では主将・檜山の欠場も響き、次点の10位。レース順位では通過圏内の9位だったが、関東インカレポイント制度(関東インカレの成績によってタイムを減算)によって、法政大学に逆転されての敗退だった。当時の主将だった先崎祐也が振り返る。
「悪夢のようでした。4年生と一緒に箱根に出たかったということもあるし、チームは良い感じでまとまっていたので……ショックが大きかったです」
一方、宇野は違う受け止め方をしていた。
「かなり悔しかったんですけど、前年度がひどすぎたのもあって自信になった。箱根出場への現実味も湧いてきました」