甲子園の風BACK NUMBER
「最後まで自分を過信できなかった」甲子園で打率4割、大学リーグは5割超で首位打者…大阪桐蔭“最強世代”で春夏連覇の外野手はなぜプロを諦めた?
text by
沢井史Fumi Sawai
photograph by(L)Hideki Sugiyama、(R)Sankei Shimbun
posted2024/12/31 11:03
大阪桐蔭では甲子園春夏連覇、進学した同志社大では5割超の打率で首位打者も獲得し主将も務めた青地斗舞。それだけの実績がありながら、なぜプロの道には進まなかったのだろうか
首位打者を獲った3年秋のリーグ戦後には、監督に野球を辞める意思を伝え、すぐに就職活動を開始した。
実はいくつかの社会人野球チームから入社のオファーももらっていた。だが、その前に丸紅から内定が出た。「先に決まったなら、これも縁なのかと思って」と、社会人野球チームには断りの連絡を入れ、会社員としての道を切り開く決意をした。
「野球を続けるのは『プロへ行けるのかどうか』というのが理由のひとつでした。でも、現状では厳しいと思っていた。しかもそれ以上に『海外で活躍する』という心躍るような目標ができた。なら、そちらに向かっていこうと思いました」
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自分のレベルを思い知ることができたからこそ野球をきっぱりと諦めることができ、次の世界に思いを馳せることができた。
22年間過ごした関西を離れ、千葉県内にある社宅に入居したのは23年春。電車通勤はすぐに慣れたが、鉄道網が複雑な関東圏での移動は、いつもと違う場所に行こうとすれば「今でも調べながら行くこともあります」と笑う。
ただ、青地が配属されることになった部署では、ちょっとした“有名人”のような反応もあったという。
「配属された部の当時の部長さんがすごく野球が好きな方で、高校時代の自分のことをご存じだったんです。すごくフランクにお話しさせていただきましたし、仕事で悩んだ時に“じゃあ、一杯いくか”と飲みに誘っていただくこともあって、上司の方にはすごく恵まれたと思っています」
社内プロフィールには「大阪桐蔭出身と書いていない」
社内ツールのSNSに新入社員の自己紹介が掲載されたことがあった。そこで青地の名前を見た者はピンと来たのだろう。即座に周囲から反響があったという。
「今までお話ししたことのない先輩の方にも声を掛けていただいたことはあります。その自己紹介欄には『野球をやっていました』とか『ゴルフが好きです』とは書いていたんですけど、大阪桐蔭出身とは書いてないんです」
それは、いつまでも“過去の看板”にすがってはいけないという青地の姿勢でもあった。
「あくまでフレッシュマンとして、謙虚に過ごしていきたい」
新天地に向かい、裸一貫で勝負をしようという強い覚悟がにじんでいた。その一方、野球界とは全く違う世界での戦いには、当初は戸惑うことばかりだったという。
<次回へつづく>