第101回箱根駅伝(2025)BACK NUMBER
優勝監督座談会「箱根駅伝はランナーの夢であり続けるのか」佐藤敏信(トヨタ自動車)×大後栄治(神奈川大学)×高見澤勝(佐久長聖高校)
posted2024/12/26 10:02
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
Nanae Suzuki/Shiro Miyake
大正、昭和、平成、令和と受け継がれてきた大会は、101回目を迎える。戦争による中断もありながら、決して途切れなかった、たすきへの情熱。箱根駅伝はなぜこうも見る者の心を熱くするのだろう。高校、大学、実業団とそれぞれのカテゴリーで選手を育成し、結果を残してきた指導者たちが考える魅力、そして課題とは何か。
――箱根駅伝の思い出というと、それぞれにどんなシーンが思い浮かびますか。
大後 ひとつに絞るのは難しいね。私は中学校の保健体育の教員になるつもりで日本体育大学に入ったんだけど、主務になって部の運営に携わっているうちに、いつしか箱根駅伝の魅力に取り憑かれてしまった。思い出深いのはあの時代です。
佐藤 私は高校の時に中距離をやってまして、それで大学を経ずに実業団に入ったものですから、選手としての思い入れはないんです。ただ、瀬古(利彦/当時・早稲田大学)さんが2区の区間新記録を出したり、学生ながら福岡国際マラソンで優勝した姿を見てすごいなと思っていましたね。
大後 高見澤先生はどうですか。ご自身も山梨学院大学時代に3度走られていますが。
高見澤 私は、小学生の頃に初めて見た箱根駅伝のことを強く覚えていますね。2区で山梨学大のマヤカ選手と早大の渡辺康幸さんが競り合っているのを見て、率直に格好良いなって。
佐藤 ご自身のことではなくて?
高見澤 そうなんです。私、1年目は8区を走って区間3位だったんですけど、2年目はケガで走れず、3年目、4年目と区間順位が年々悪くなってしまって、あまり良い思い出とは言えないんです。特に最終学年はキャプテンで、前年度にチームが準優勝をしていましたから、絶対に優勝しなければという思いが強かった。そのプレッシャーに負けた気がします。
計り知れないプレッシャーと箱根駅伝に懸ける思い
大後 どうしても気持ちが入り込んでしまう大会ですから、心と身体のバランスを整えるのが難しい。注目度が半端ないので、そこで苦しむ大学生は少なからずいますね。
佐藤 私がまだコニカミノルタでコーチをしていた頃ですけど、大後さんの神奈川大学から高嶋康司が入社したでしょ。彼は箱根駅伝で途中棄権をしている。レース中に骨折して、それでも走るのを諦めなかった。あの姿を見て、すごい期待とプレッシャーがあるんだなって。私は指導者になり、大学生を預かるようになってから改めて箱根駅伝の奥深さを知りましたね。
大後 テレビの影響が大きいんですよ。1987年から日本テレビの中継が始まって、年々注目度が増していった。テレビ中継がなければスター選手も、それこそ「山の神」だって生まれていないでしょう。
佐藤 昔も大東文化大学の大久保初男さんとか、5区ですごく強い選手がいた。でも、今の人はほとんど知らないでしょうね。
大後 山の神が誕生したのは、5区の距離が延びたからでもあるんです。たった2kmですけど、約10年間だけ5区が23km以上の距離になった。その是非はともかく、あの時代に今井正人(当時・順天堂大学)君や柏原竜二(当時・東洋大学)君ら大スターが誕生してますからね。