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ぶら野球BACK NUMBER
「テレビ生放送で落合博満がいきなり…」40歳落合の巨人FA移籍は事件だった…ナベツネ「ウチなら5億円出す」原辰徳は不快感「落合さんは筋違い」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2024/10/08 11:00
1993年12月、年俸約4億円の2年契約で巨人入団を発表した落合博満(当時40歳)。このFA移籍は“事件”だった
各球団のエゴと思惑が絡まり、二転三転の末に、9月21日にはFA制度の細部の条件を含め最終合意。10月8日に選手会と機構側の間で調印式が行われ、オフからの実施が正式に決定した。
プロ野球界も焦っていたのだ。93年春に始まったサッカーのJリーグは社会的ブームとなり、開幕戦のヴェルディ川崎vs.横浜マリノスはテレビ視聴率32.4%を記録。大相撲も若貴兄弟人気で空前の盛り上がりを見せていた。92年の日本シリーズでは西武とヤクルトが熱戦を繰り広げたが、西武が日本一を勝ち取った第7戦の翌朝、スポーツ新聞各紙では、貴花田と宮沢りえの婚約が一面を独占した。ヴェルディ川崎のスター選手・三浦知良の年俸が、巨人・原辰徳を大きく上回る2億円を突破したのもこの頃だ。昭和から続く、“国民的娯楽”のプロ野球の立ち位置が揺らぎつつあった。逆指名ドラフトやFA制度といった数々の球界改革案とともに、その人気回復の切り札が、長嶋茂雄の巨人監督復帰だったのである。
長嶋「いまのウチに(四番が)いますか?」
しかし、長嶋巨人は過渡期だった。1993年は14シーズンぶりに勝率5割を切り、首位ヤクルトと16ゲーム差の3位がやっとで、リーグ最少得点に12球団最低のチーム打率.238と貧打に泣かされた。長年、巨人の象徴だった35歳の原辰徳はすでに満身創痍で、プロ入り以来ワーストの98試合の出場に終わり引退も囁かれ、駒田徳広は中畑清打撃コーチと衝突して、オフにFA権を行使して自らチームを飛び出す。新たな巨人の未来は、セ・リーグの高卒新人新記録の11本塁打を放ったゴールデンルーキー松井秀喜に託されていた。だが、その松井は「四番1000日計画」の真っ只中。一本立ちするまでにはまだ時間がかかる。長嶋監督はチームの核となり、さらには松井のお手本になれるような本物の四番打者を欲していたのだ。
「四番というのはチームの顔なんです。バッティングだけでなく精神的な支柱でもあるんですね。バットマンとしての夢であり、三番や五番とは違うんです。不動の四番が欲しい。四番というのは特別で、シンボル的なもの。誰からも文句が出ないような存在なんです。どうでしょう、いまのウチにいますか?(四番に)なりきれないのと、ええ、まだ、少々時間がかかるというのか……」(週刊ベースボール1993年11月15日号)
覇権奪回のためには、リードを許すと下を向く大人しいナインを背中で引っ張ることのできるグラウンド上のリーダー役が必要だった。いわば、巨人のユニフォームにも萎縮することなく、仲良しグループをぶっ壊すことができるアウトサイダーの四番打者である。
「いまの巨人は優等生の体質。これに同じ“抗体”を入れても仕方ありません。悪玉を入れなければ」(週刊読売1993年11月7日号)
原辰徳が不快感「筋違い」
もはや、間接的なオレ流へのラブコールの数々。この時、あらゆる批判に耐えながら10年間にわたり巨人の四番を張った原は、どんな気持ちで、これらのミスター発言を聞いていたのだろうか。