甲子園の風BACK NUMBER
佐々木朗希の恩師が泣いていた…高校野球を激変させた“登板回避”の決断「時間が戻っても朗希を投げさせない」大船渡の32歳監督は何者だったのか
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byAsami Enomoto
posted2024/08/24 17:21
2019年夏の岩手大会決勝。試合後にメディアから質問を受ける國保陽平監督(当時32歳)
「完全試合をプロで達成したからといって、あの決断が正しかったことにはならない。(花巻東との)試合に負けたということは、正解の戦い方ではなかった。結局、朗希が登板しなくても、勝てるようなチーム作りを僕ができなかった。他に打つ手はなかったのか。それもずっと考えてきましたが、その命題に対する答えもわかりません。
当時、僕が一番恐れたのはヒジの故障です。ピッチング時、右腕は廻旋運動をして、遠心力が生まれる。登板が重なり、かなりの球数を放ってきた疲れた状態の朗希のヒジのじん帯や上腕二頭筋などの筋肉が、160キロ超のボールに耐えられるのか。そこを懸念しました。決勝で投げたとしても、故障はしなかったかもしれない。だけど、故障リスクが最も高い日だったことは間違いありません。だから登板させなかったことは後悔していませんし、あの日に時間が戻っても朗希には投げさせないんです」
登板回避は高校球界を変えた
令和の怪物の登板回避騒動のあと、高校野球は大きな転換期を迎えた。まず、「エースと心中」が死語になった。甲子園に出場するような学校はどこも複数の投手を育成し、エースに過度な登板を強いるような監督には厳しい目が向けられるようになった。もちろん、これは2021年春に導入された「1週間に500球」という球数制限の影響が大きいが、決勝や準決勝を前にして、選手たちに「今日はエースを投げさせない」と告げる監督や、大事な試合であっても「今日は投げません」と直訴するエースが珍しくなくなった。こうした変化は、國保のあの英断が、高校野球における投球障害予防の意識を高めた結果だろう。
奇しくも國保は高校野球の改革者となった。が、5年の時を経た当の本人は、きたぎんボールパークの駐車場整理で忙しく動き回っている。
國保、佐々木と共に戦ったナインや決勝の相手となった花巻東の関係者は、あの夏の決勝をどう回顧するのだろうか。私は肉声を集めて回った。
〈つづく〉