甲子園の風BACK NUMBER
佐々木朗希の恩師が泣いていた…高校野球を激変させた“登板回避”の決断「時間が戻っても朗希を投げさせない」大船渡の32歳監督は何者だったのか
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byAsami Enomoto
posted2024/08/24 17:21
2019年夏の岩手大会決勝。試合後にメディアから質問を受ける國保陽平監督(当時32歳)
驚きの光景…昨夏見た「國保の涙」
國保の目に涙が溢れていたのだ。甲子園切符の懸かった2019年夏の決勝後ですら一粒の涙も落とさなかった野球指導者が、教え子たちの健闘に目を赤らめていた。
誤解を恐れずに言えば、5年前の國保に、人間味は感じられなかった。とりわけ春のセンバツ直後に行われたU−18高校日本代表の合宿で佐々木が163キロを記録してからというもの、プロのスカウトや報道陣が練習試合にも大挙して訪れるようになった。しかし、そうした空気を読んで登板予定のなかった佐々木をマウンドに上げるようなことは絶対にしなかった。報道陣から要請があっても、佐々木や佐々木のボールを受ける及川恵介らの取材を拒否することもあった。
國保は報道陣との間に大きな壁を作るようになっていた。その一方で、公式戦ではサインミスが相次ぎ、いつしかノーサイン野球に変わった。喧騒が國保を困惑させ、チームに混乱を招いているように見えた。
その國保が、教え子の勝利を見て泣いている。最後の夏が終わった大船渡のナインの奮闘を讃え目頭を熱くしている。5年前の國保が置かれた状況が異常だっただけで、生身の國保はこうなのだ。すべての教え子が可愛く、等しく未来に期待している。
「あの日に時間が戻っても朗希を投げさせない」
5年前の夏以来、國保と会うたびに私は同じ質問を繰り返して来た。あの決断は正しかったと思うか、と。回答はいつも同じだ。
「それはずっと自問自答してきました。答えはわかりません」
しかし、必ずこう付け加えてきた。
「たとえあの日に時間が戻ったとしても、試合日程や登板間隔が同じシチュエーションなら、僕が朗希を花巻東との決勝に起用することはありません」
2019年ドラフトで千葉ロッテに1位指名された佐々木は、3年目の2022年4月に完全試合を達成した。これは2019年夏に國保が下した登板回避の判断が、正しかったことを証明する快挙だったのではないだろうか。完全試合のあと、國保はこう答えている。