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[巻頭言]中村順司(PL学園)「58勝とKKの記憶」
posted2024/08/16 09:01
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph by
Katsuro Okazawa
1980年代の常勝軍団はいかにして築かれたのか。そこには団結力だけでなく、個性の輝きがあった。数多の名選手を育ててきた名将の組織論とは。
私が母校・PL学園の監督に就いたのは1980年の夏、34歳の時でした。前任の鶴岡泰監督が率いた1978年の「逆転のPL」の西田真次と木戸克彦のバッテリーに憧れて、有望な選手が集まってくるようになった時期でもありました。
その頃の大阪は豊田義夫監督(近大附)、松岡英孝監督(北陽)、村井保雄監督(興國)、網智監督(大鉄=現・阪南大高)ら名将揃いで、そんな監督たちと喧嘩したところで私では相手にならない。だからもう、選手たちにはとにかく普段の力を試合で発揮できるよう、身体の使い方を「ワンポイント・アドバイス」することに徹しました。脇の締め方、肘の使い方といったちょっとした助言を送るだけで、投球フォームも打撃フォームも十分に良くなるんです。試合中はサインを出すよりも、選手に身振り手振りでフォームの修正点を伝えようと手を動かしていたことの方が多かった。
私が初めて甲子園で優勝したのは1981年の春、主力選手は吉村禎章です。私は18年間のPL学園監督生活において、一度も選手に「優勝しよう」と言ったことはありません。「次も校歌を歌おう」「泥だらけになって暴れよう」と、そういうことを言うんです。そうしたら、センバツ決勝の印旛(千葉)戦を前に、吉村が本当に顔に土を塗り始めた。それにほかの選手たちが続いて、泥まみれで試合をしたんです。