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「赤坂でヤクザに刺され…」39歳で急死した力道山…その後継社長になり、ギャンブルで大失敗したレスラー“知られざる人生”「アントニオ猪木が土下座した日」
posted2024/09/11 11:06
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
Sankei Shimbun
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「力道山ジムに遊びに行こう」「力道山ジム?」
1954年12月22日、蔵前国技館で行われた「日本選手権試合・力道山光浩対木村政彦」。その試合前に、上半身裸の男がリングに上がった。リングアナウンサーの阿久津直義に紹介されると、男は照れ臭そうに一礼した。大相撲を引退した元幕内力士の豊登道春である。
豊登が日本相撲協会に引退届を出したのが、この年の10月。日本プロレスに入団したのが11月。そして10日前の12月12日に、横須賀市体育館で柔道出身の宮島富雄を相手にデビュー戦を行い勝利を収めている。
前編で触れたように、豊登が大相撲を廃業した理由は、所属する立浪親方との不仲が背景にあったのはまず間違いないが、廃業の決断を後押ししたのに、新興のプロスポーツであるプロレスの存在があったのも、また事実だったのかもしれない。
豊登とプロレス及び力道山を繋いだのが、所属する部屋こそ違えど仲の良かった元幕内力士の芳の里淳三だった。彼にとって二所ノ関部屋の先輩力士が力道山であり、引退後も力道山との交流は続いていた。その芳の里が十両時代の豊登にこう言って誘いをかけたという。
「トヨ関、今から人形町の力道山ジムに遊びに行こう」
「力道山ジム?」
「ああ、前、ウチにいたリキ関がプロレスリングを始めたのは知ってるだろう。それでジムを開いたんだ。アメリカ式の器具を使っての練習が出来るそうだ」
芳の里に誘われるがままに人形町にあった日本プロレスの道場に顔を出した豊登は、初めて顔を合わせた力道山に「いい運動になるだろう。いつでも遊びに来いよ」と声をかけられている。ここで出来た関係性からプロレス転向を念頭に、廃業に踏み切っただろうことは何となく想像がつく。
また、大相撲の本拠地である蔵前国技館の大舞台で、豊登にプロレス転向のお披露目をさせたのは、力道山の期待の表れと見ていいかもしれない。というのも、日本プロレス旗揚げ当時、エースである力道山以外の主力選手は、“最強の柔道王”木村政彦、“満州の虎”山口利夫、さらに遠藤幸吉ら、多くが柔道家ばかりで、角界出身の力道山にとって必ずしも肌の合う仲間ばかりではなかった。
発足1年が経っていたこの時期、力道山が同じ力士出身のパートナーを欲しており、事実、この日のメインイベントの日本選手権試合で、力道山は木村政彦を殴打に次ぐ殴打でノックアウトし、凄惨な幕切れとなっているのはよく知られているが、自身のパートナーを木村政彦から、角界の後輩である豊登へと交代させる暗喩と見えなくもないのである。