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「歩くのも座るのも難しくなって…」屈強だったマサ斎藤の体を蝕んだパーキンソン病…逝去前日、トレーナーに遺していた“ある言葉”《七回忌》
posted2024/07/14 11:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
株式会社アンサンヒーロー
2024年7月14日、マサ斎藤さんが亡くなってから七回忌を迎える。マサ斎藤といえば、プロレスラーも憧れる“レスラーの中のレスラー”と呼べる存在だった。
1964年の東京オリンピック・レスリング重量級日本代表の肩書きを提げて、翌’65年にプロレス入り。’68年に渡米後は、本場アメリカマットを一匹狼として渡り歩き、長年トップヒールとして活躍した。その逞しい生き様は、ファンだけでなく同じレスラーからも憧れの的だった。若き日に長州力と天龍源一郎は、それぞれレスリング、大相撲からプロレスに転向後、なかなか芽が出ずに燻っていたが、アメリカ修行中にマサさんと出会い、異国で腕一本でカネを稼ぐその姿を自らの指針としたほどだ。
80年代後半からは主戦場を新日本プロレスに移し、アントニオ猪木とのライバル抗争を展開。’87年10月4日に山口県下関市の無人島、巌流島で無観客の中2時間5分14秒にわたり展開された“巌流島の決闘”は今も語り草となっている。
7月14日はマサ斎藤の七回忌
80年代末から90年代は新日本プロレスの外国人ブッカー(渉外担当)としてビッグバン・ベイダー、スコット・ノートンらを発掘。さらにアメリカのメジャー団体WCWの副社長エリック・ビショフと意気投合し、日本でも一世を風靡した“nWo”の使用許諾を、契約書ではなく握手のみで成立させたこともある。
そして’99年2月に現役を引退し、ブッカーとしてさらに活躍しようとしていた矢先にパーキンソン病という病がマサを襲った。
その後は愛弟子・佐々木健介が主宰する健介オフィス(ダイヤモンドリング)の選手アドバイザーとして、若き日の宮原健斗、中嶋勝彦、マサ北宮らを指導しながら必死のリハビリを行い、18年もの長い間、パーキンソン病という進行性の難病と闘い続けたが、2018年7月14日、75歳で帰らぬ人となった。
そして今回、七回忌という節目にパーソナルトレーナーとしてマサ斎藤の“最後の闘い”をサポートした作業療法士・庭野航介さんの話をうかがう機会に恵まれた。
庭野さんは2014年から4度、それぞれ1カ月半にわたるマサさんの集中リハビリを担当。亡くなる当日まで寄り添い、晩年のマサさんをもっとも間近で目撃した庭野さんに、マサさんの奥様・倫子夫人の許諾・同席のもと最後まで病に立ち向かっていったプロレスラー・マサ斎藤の姿を語ってもらった。
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リハビリのウエートトレーニングで「60kg上げていた」
庭野さんとマサさんの出会いは2014年。埼玉県のリハビリ施設にマサさんが初めての集中リハビリのために入所したときだった。当時の印象を庭野さんはこう語る。
「私が勤めていた施設は、病気やケガを抱えられて体力も落ちてしまっている方が多く使われているので、マサさんと初めてお会いした時、こんなにガタイのいい方は初めてだなと思いましたね。現役時代と比べるとかなり体重も落ちたと言われていましたけど、それでも当時は83kgあって、胸板が他の方と比べて2倍くらいありましたから」
施設では、病気の影響で固くなった体の可動域をストレッチで広げ、落ちた脚力の強化や、転倒せずにバランスをうまく取れるよう歩行練習などを行う。動かない体を動かそうとするリハビリは想像以上に過酷だが、パーキンソン病は進行性の病。1日怠ければそれだけ病は進行してしまう。まさに終わりなき戦いだ。そんな中、リハビリの内容もマサさんは他の利用者とは違った。