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「大谷翔平に“負けた”と言わせた12歳」その後の人生「ああ、やられたなと」プロ野球を諦めた怪物の“卒業文集”…悔やむ中学時代、現在は双子の父に
posted2024/06/29 11:03
text by
中村計Kei Nakamura
photograph by
Number Web
今年、30歳を迎える大谷翔平世代、いわゆる1994年度生まれの代。振り返れば小・中、高校時代には“大谷以上の怪物”といって差し支えなかった男たちがいた。大谷世代の“天才たち”の人生と、愛憎混じる野球への思い――「大谷が衝撃を受けた男」大坂智哉の証言。【全4回の4回目/1~3回も公開中】
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青森は長らく青森山田と光星学院の2強時代が続いていたのだが、大坂智哉の代は3年間、一度も光星学院に勝つことができなかった。
高校で壁「大谷」と「光星学院」
最上級生になったとき、光星学院の中心は田村龍弘(ロッテ)、北條史也(元阪神)、城間竜平(パナソニック)らが担っていた。マウンドに立った大坂の目に打者としての田村は大谷翔平以上にすごく映ったこともあるという。
「どうやって抑えればいいのかわからなかったですね。パワーがすごくて、どの方向にもホームランが打てるんです。プロであの田村がバッティングで苦しんでるのを見て、プロってすごいんだなと思いましたから。あの田村が打てないなら、どうすればいいの? という感じですよね」
大坂は高校で野球を辞め、地元で就職するつもりでいた。やり切ったという思いもあったし、自分の能力に限界も感じていた。しかし、よくある話だが、監督の半ば命令で仙台大学への進学を余儀なくされる。
「仙台大学から枠を1つもらっているから行け、と。それで決まりました。まあ、大学行けるならいいかぐらいの感じでしたね」
やめかけた野球「なぜ今も続けるのか?」
しかし、大学で大坂は得がたい体験をする。仙台大が加盟する仙台六大学リーグは当時、何人ものプロ野球選手を輩出している東北福祉大と東北学院大の力が抜けていた。仙台大学は万年3位チームだった。大坂はそこで2年春からファーストのレギュラーとして定着。打順は三番か四番を任された。