「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
巨人・王貞治の世界記録にヤクルト戦士が「あぁ、よかった…」 広岡達朗の愛弟子・水谷新太郎はなぜ“巨人への劣等感”を抱かなかったのか
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2024/02/21 17:03
1977年9月3日のヤクルト戦で“世界新記録”となる756本目のホームランを放った巨人の王貞治。水谷新太郎はこの試合でショートを守っていた
《王、土井、柴田らには、『ヤクルトなにするものぞ!』の気概が見えたが、明らかに断層を感じる柳田(真宏)を中心にした次代の若手が、自分の技術に“不安感”を持ちはじめていたと、私は観察する。》
当時の柳田はすでにプロ12年目、30歳を迎えており、「次代の若手」と呼べるかどうかはともかく、V9戦士である王貞治(当時38歳・以下同)、土井正三(36歳)、柴田勲(34歳)と若手選手との「断層」を指摘し、さらに「V9戦士の高齢化」「レギュラー陣の顔ぶれの硬直化」を要因に挙げている。
巨人のもう一つの敗因となったのは、これも若手には耳が痛いかもしれないが、いつまでもV9の生き残りがレギュラーの座を占めなければならなかった点だ。
スワローズ、そしてジャイアンツそれぞれのチーム事情によって、「10勝9敗7分」という結果がもたらされた。そしてそれは、スワローズ初優勝の最大の要因となったのである。
王者・阪急ブレーブスとの激闘
日本シリーズの相手は、4年連続でパ・リーグを制した阪急ブレーブスに決まった。3年連続日本一を成し遂げ、投手陣には山田久志、佐藤義則、山口高志、今井雄太郎、足立光宏が並ぶ。そして野手陣は福本豊、簑田浩二、加藤秀司が円熟期に差しかかり、チームは黄金時代を迎えていた。水谷は言う。
「勝つとか、負けるとか、そんなことは何も考えず、“とにかくやるっきゃない”という思いでした。別に“0勝4敗で負けるんじゃないか?”という思いもなかったです。うちだってセ・リーグを勝ち抜いてきたわけですから。僕が驚いたのは、山田さんよりも足立さんでしたね」
水谷が口にしたのは、この年18勝をマークした山田でも、13勝の佐藤でもなく、当時すでにプロ20年目を迎えて、4勝6敗に終わっていた足立だった。
「山田さんはゆったりとしたフォームからコーナーにビシビシ決まるんです。でも、山田さんのように、一般的にシンカーは低めから落ちるものですけど、足立さんのシンカーは高めから落ちてくるんです。だから、めちゃくちゃ速く感じるんですよ」