「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
巨人・王貞治の世界記録にヤクルト戦士が「あぁ、よかった…」 広岡達朗の愛弟子・水谷新太郎はなぜ“巨人への劣等感”を抱かなかったのか
posted2024/02/21 17:03
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
JIJI PRESS
1977年、王貞治が世界記録の756号を放った日
1978年10月4日――。広岡達朗率いるヤクルトスワローズは、球団創設29年目にして初となるセ・リーグ制覇を目前にしていた。9回表一死一塁、中日ドラゴンズの谷沢健一が放った力のない打球は、セカンドを守るデーブ・ヒルトンの前に転がる。体勢を崩しながらキャッチしたヒルトンはダブルプレーを狙い、ショートの水谷新太郎にすばやくトスをする……。
「ヒルトンからのトスはちょっとぎこちなかったですよね(笑)。でも、ボール自体は問題なかったし、ヒルトンが捕球した時点ですでに“もらった!”という思いでした。そして、ゲッツーになって試合終了。優勝した瞬間からは一気にお客さんがなだれ込んできて、僕はその周りを取り囲んで、監督の胴上げに参加しました。今じゃ信じられない光景ですけど」
78年ペナントレースは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツと熾烈な戦いが繰り広げられていた。7月28日にはジャイアンツが首位を奪回するも、8月2日の直接対決ではスワローズが勝利して再び奪首。追いつ追われつ、抜きつ抜かれつの展開が続く。しかし、8月中旬にスワローズは失速、首位ジャイアンツとの差は4.5まで開いた。
「それでも、自信は全然揺るがなかったし、“絶対に大丈夫だ”って思っていました」
当時24歳だった水谷の言葉は力強い。本連載において、これまで若松勉、松岡弘、大矢明彦、八重樫幸雄らが口にしていた「やっぱり、ジャイアンツコンプレックスはあったと思う」という発言とは明らかにニュアンスが異なる。
「僕がプロ入りしたときにはすでにⅤ9選手たちも晩年に差しかかっていました。74年の長嶋さんの引退試合はファームでテレビを見ていて一緒に試合をしたことがありませんでしたし、王(貞治)さんもすでに大ベテランでしたから」