誰も知らない森保一BACK NUMBER
医者が激怒「もう2度と来るな」“やんちゃだった”高校時代の森保一監督「左腕骨折でも試合出場」「ハジメ君は武闘派でした」サッカー部後輩が証言
posted2024/01/31 11:40
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph by
AFLO
アジアカップを戦うサッカー日本代表。その指揮官・森保一(55歳)とはいったい何者なのか? 森保の地元・長崎、そして広島、仙台を徹底取材して見えてきた“意外な素顔”とは? ライター木崎伸也氏がNumberWeb集中連載でレポートする。【連載「誰も知らない森保一」の第5回/第6回も公開中】
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ヤンキー(やんちゃな若者)には根性がある――。
ステレオタイプな見方であり、そもそもヤンキーという言葉が死語になりつつある。だが、少なくとも長崎の造船町で昭和年代を生きた森保一にはあてはまる部分がありそうだ。
1968年8月生まれの森保は、1984年に地元・長崎市立深堀中を卒業。サッカー部の特待生として長崎日大高校(諫早市)へ進む。当時の長崎県では島原商業高校や国見高校が強豪校。長崎日大はまだ高校選手権にも1度もでたことがない中堅校にすぎなかった。
高校時代の森保は、まさにやんちゃで「根性」という言葉が似合う選手だった。
「ギプスを溶かして…」左腕骨折でも試合出場
高2の夏、島原のある大会に遠征したときのことだ。森保は左腕を骨折しており、患部はギプス(石膏)で固められていた。とてもプレーできる状態ではない。
それでも長崎日大を率いていた下田規貴監督は、森保なしでは試合が成り立たないと考えた。国見や島原商業に比べると選手層が薄く、司令塔の森保が欠けたら一気に戦力ダウンしてしまう。
チームはある神社の民宿に宿泊していた。下田は森保と一緒に風呂に入ると「明日おまえが出やんとどうなるんよ」と語りかけた。
「お湯でちょっと石膏を溶かせ。試合に出す」