誰も知らない森保一BACK NUMBER
医者が激怒「もう2度と来るな」“やんちゃだった”高校時代の森保一監督「左腕骨折でも試合出場」「ハジメ君は武闘派でした」サッカー部後輩が証言
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph byAFLO
posted2024/01/31 11:40
1993年3月の日本代表合宿で。森保は当時24歳。この前年に初めて日本代表入りするまで、ほぼ“無名”の存在だった
「足は速くないし、体も細かったんですが、とにかく一生懸命やる。ガッツがあり、正義感が強く、仲間に何かあったら自分も突っ込んでいく。そういった面で森保は抜きん出ていました。熱い気持ちの男です」
ちなみに高校卒業時でも森保は174cm、58kg。サッカー選手としてはかなり細身の部類である。
「練習をサボったり…」なぜキャプテンではなかった?
興味深いことに、それだけチーム内で特別な選手だったにもかかわらず、森保はキャプテンに指名されなかった。森保が高3になったとき、下田からキャプテンを任されたのは別のFWだった。
なぜか? 「やんちゃ」さゆえの不安定さがあったからだ。
下田監督はオブラートに包んで理由を語った。
「キャプテンを任せたそのFWの選手は、コツコツと頑張る子でした。森保も頑張るんですけど、バイク(原付)に乗ったり、練習をサボったり、じつはいろいろありまして(笑)。当時はまだキャプテンにふさわしい選手ではありませんでした」
法律的に原付の免許は16歳から取ることができるが、長崎日大ではたとえば家が山間部で通学が困難といった特別な事情がない限り、基本的に認めていなかった。下田監督は森保に雷を落とし、厳しく指導しなければならなかった。
書籍『ぽいち 森保一自伝』(西岡明彦との共著)を見ると、高校時代の写真が掲載されている。当時交際していた彼女(現在の妻)と肩を組んでいる写真だ。髪型こそ下田監督の方針によって坊主にしているが、笑顔にやんちゃさが滲み出ている。
当時の森保は高校生離れした意志のエネルギーを持っていたとはいえ、まだ若さゆえの危うさを抱えていた。
そのすさまじい熱量と不安定さが混じり合い、高2の夏、“人生最大の挫折”を味わうことになる――。
<続く>
森保一(もりやす・はじめ)
1968年8月23日、静岡県生まれ。長崎県出身。1987年に長崎日大高を卒業後、マツダサッカークラブ(現・サンフレッチェ広島)に入団する。現役時代は、広島、仙台などで活躍し、代表通算35試合出場。1993年10月にドーハの悲劇を経験。2003年に現役引退後、広島の監督として3度のJ1制覇。2018年ロシアW杯ではコーチを務め、2021年東京五輪では日本を4位に、2022年カタールW杯ではベスト16に導いた