誰も知らない森保一BACK NUMBER
「サッカー部をやめてしまった」やんちゃだった森保一監督“突然の登校拒否”、人生最大の挫折…恩師が証言する「高校中退しかけた高2の夏」
posted2024/01/31 11:41
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph by
AFLO
アジアカップを戦うサッカー日本代表。その指揮官・森保一(55歳)とはいったい何者なのか? 森保の地元・長崎、そして広島、仙台を徹底取材して見えてきた“意外な素顔”とは? ライター木崎伸也氏がNumberWeb集中連載でレポートする。【連載「誰も知らない森保一」の第6回/第1回~第5回も公開中】
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高校中退――。長崎市の造船町で育った森保一にとって、それは遠い世界の出来事ではなかった。
母校・深堀中学校サッカー部の仲間のなかには中学を卒業すると働き始める者がいた。また強豪・島原商業高校に進学して日本一になった親友は高2で中退している。仕事が少なからずあり、高校をやめても帰れる地元が存在していた。
森保にとって“人生最大の挫折”……それは1985年、高2の夏だった。長崎日大高サッカー部の森保は、2週間も学校に行かなくなったのだ。
森保は『ぽいち 森保一自伝』(西岡明彦との共著)で告白している。
「もし、先生にソッポを向かれていたら、サッカー部どころか、学校もやめていたかもしれない」
「サッカー部をやめてしまった」
森保が17歳になる頃の話である。
長崎日大高校は森保を中心に力をつけながらも、小嶺忠敏監督率いる強豪・国見高校に一度も勝てずにいた。小嶺監督が直前まで率いていた島原商業高校も立ち塞がった。長崎県で彼らに勝たない限り、全国大会に行けない。
小嶺流の強さの秘密は厳しいトレーニングに加え、ネットワークを生かしたリクルート力にあった。小嶺のもとに県内の有力選手が集められ、他校のサッカー部には人材がいきづらい。
長崎日大はサッカー推薦制度を使って強化を進めていたが、推薦枠は1学年3人のみ。国見とは選手層が圧倒的に違う。根性だけでは決して越えられない「格差」があった。
一人の力ではどうしようもなく、絶望しても無理はない。森保は突然、登校拒否になってしまった。『ぽいち 森保一自伝』ではこう振り返る。