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箱根駅伝の後に1年以上の不振…田母神一喜25歳が振り返る、“中距離→箱根駅伝挑戦”の代償「競技的にはマイナスでした。でも…」
posted2024/01/07 06:02
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
Takuya Sugiyama
中央大学に入学後、1500mなど中距離で活躍していた田母神一喜はチーム事情から4年時に長距離に転向、箱根駅伝を目指しチームのキャプテンを務めた。しかし、箱根駅伝は自身は出走登録されず、最初で最後の箱根駅伝を迎える――。(Number Webノンフィクション全3回の第3回/初回はこちら)
舟津と2人でゴールを待つ
2020年の箱根駅伝、田母神は6区の控えだった。1年生の後輩が無事スタートラインに立てることを確認すると、9区の給水係に回った。わずか100mほどのラストラン。激励の言葉をかけ、役目を終えると、息つく暇もなく今度は大手町のゴール裏に駆けつけた。
そこで待っていたのは苦楽を共にしてきた舟津(彰馬)だった。彼もまた直前に調子を崩し、最後の箱根を走れなかったのだ。4年前のあの日、チームの再建を誰よりも強く願った2人が、ダウンコート姿でアンカーを待ち受ける。彼らの後ろ姿は切なく映った。
中大は往路の1区から出遅れて、9区を終えた時点で13位。だが、アンカーの二井(康介)は2人が思っているよりも早く「区間6位」の走りでゴールにやってきた。最後の箱根で一番強く印象に残っているのが、二井を抱きかかえたこのシーンだという。
「シードを東洋が取って、11位で中央学院が来て、すぐに中大のユニフォーム姿が見えて、『ええっ、もう来るの』って。それこそ二井は一昨年にお母さんを亡くしていて、すごく頑張って結果を出した。僕だったらあんな走りはできてないですね。やっぱり二井が走って良かったなって思いました」
シード権にはまたも届かなかった。名門復活もお預けとなった。もちろん箱根を走れなかったことは口惜しかったが、4年間を悔いなく終えられて、清々しい思いもあったという。
「田母神さんがあそこまで走るとは」
キャプテンとして、自分にいったい何ができたのか。その答えがわかったのは、わりと最近のことだったという。