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箱根駅伝の後に1年以上の不振…田母神一喜25歳が振り返る、“中距離→箱根駅伝挑戦”の代償「競技的にはマイナスでした。でも…」 

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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photograph byTakuya Sugiyama

posted2024/01/07 06:02

箱根駅伝の後に1年以上の不振…田母神一喜25歳が振り返る、“中距離→箱根駅伝挑戦”の代償「競技的にはマイナスでした。でも…」<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

2年の秋に退寮し、駅伝チームとは関わりがほぼなくなっていた中距離メインの田母神。しかし、4年時は主将として箱根駅伝を迎えることになる

「2022年の関東インカレで、僕らの時の中大の後輩たちと会って、一緒にみんなで飲みに行ったんです。正直、あの年の俺らってどうだったって聞いたら、『中距離の田母神さんがあそこまで走るとは思っていなかったので、本当にこのままじゃ自分たちはダメだと思った』って。そう言ってもらった時に、主将をやって良かったと思いましたね。ちゃんと伝わっていたんだって、そう思いました」

藤原監督からの手紙

 大学卒業時には、藤原(正和)監督から手紙を贈られた。宛名の書かれた便せんが、卒業する部員一人ひとりに手渡された。田母神宛ての手紙には、こんなことが書かれていた。

「最初に『嵐のような4年間を共に過ごしましたね』というようなことが書いてあって、『勝利の女神は細部に宿る』という言葉をいただきました。もっと細かいところを大切にしないと勝てないぞって、よく話をしてもらっていたんです。本当に監督の部屋ってシューズがキレイに揃えてあって、靴紐の結び方まで同じなんです。でも、それこそが監督が世界と戦って必要と気づいたものなんだなって、今になってよくわかります。大切にしなきゃいけないと思って、その手紙は引き出しにしまってありますね」

 半年間、地道に脚を鍛えた。長距離仕様に作り直すために、あえてスピードを抑えるような練習だった。その代償は大きく、卒業後、田母神は極度の不振に陥った。

感覚を取り戻すのが本当に大変でした

 クラブチームの「阿見AC」に進み、チームの経営を学びながら競技を続けていたが、ようやく自分の走りが取り戻せたと感じるまでに1年以上を要したという。

【次ページ】 正直、箱根には何ひとつ良い思い出がないけど…

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