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野村克也もアメリカ人監督も絶賛した“世界1位の日本人”「401奪三振」「ど真ん中でも打てない」じつはメジャー挑戦していた“江夏豊の伝説”
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph bySports Graphic Number
posted2024/01/01 11:03
1985年「たった一人の引退式」(Number主催)に向かう際の江夏豊
「高校三年になったとき、職員室に行って、塩釜監督に『カーブを教えてください』とお願いしたら、『なに?』と言われて、次に返ってきたのは鉄拳でした。『貴様、真っすぐでストライクも放れんのに、なにがカーブじゃ!』。それからはもう『カーブを放りたい』などという気持ちはなくなりました」(『エースの資格』PHP新書/江夏豊著)
江夏はストレート一本で、3年夏の大阪大会準決勝までの6試合に登板。失点2、奪三振81という驚異的な成績を残し、阪神、巨人、東映、阪急の4球団の1位指名競合の末に阪神に入団する。
「伝説のシーズン」前にある出会い
1967年のプロ1年目の春キャンプで、カーブの習得に取り組んだがものにならず。結局、この年はストレートと“曲がらないカーブ”だけでセ・リーグの奪三振王(225個)に輝いた。
翌年の春キャンプで、江夏は「感謝してもしきれないほどの恩人だった」と述懐する恩師・林義一ピッチングコーチに出会う。
林は「ホームランの数を減らすには、もう少しコントロールをよくしなければならない。そのためにはフォームのバランスが大事。余分な力が入っているので、それを抜くための練習をしていこう」とキャッチボールから指導。このフォーム改造によってコントロールが改善した。
さらに、林から渡されたゴムボールを使い、スナップを利かせる練習を繰り返した。その結果、カーブのキレが劇的に向上。外角低めにコントロールされた快速球と、高速で小さく曲がり落ちるカーブという江夏のピッチングの基本線が2年目のシーズン前に確立されたのだ(『エースの資格』)。
王貞治を完璧に封じた「あの試合」
こうして迎えた1968年シーズンで、“江夏の401奪三振”が演じられた。筆者は9月17日の試合、つまり王貞治から奪った354個目の日本記録達成の瞬間をテレビ観戦していた。