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野村克也もアメリカ人監督も絶賛した“世界1位の日本人”「401奪三振」「ど真ん中でも打てない」じつはメジャー挑戦していた“江夏豊の伝説”
text by
太田俊明Toshiaki Ota
photograph bySports Graphic Number
posted2024/01/01 11:03
1985年「たった一人の引退式」(Number主催)に向かう際の江夏豊
同年の王は、プロ10年目の28歳。打率.326、本塁打49本の二冠王と全盛期にあったが、最初の2打席は2三振。野生のカンで打つ長嶋茂雄と違って、精密機械の王は律儀にストレートとカーブ両方の球種に反応しようとして、どちらにも対応できていないように見えた。3打席目も1-2から外角のストレートに空振り三振。この年の江夏は、全盛期にあったプロ野球史上最高打者をも圧倒する球威を誇っていた。
では、全盛期の江夏の球速はどのくらいだったのか。この当時スピードガンはまだなかったが、日刊スポーツの金子勝美カメラマンが、1秒間に48コマの連続撮影ができる最新のドイツ製カメラを使用して江夏の速球を撮影。ボールが投手の手を離れて捕手のミットに収まるまでに何コマ要するか数え、そこから計算して球速を出したところ、江夏の球速は156キロだった。これは投手の手を離れてからミットに収まるまでの平均球速で、一般に初速と終速には10キロ程度の差があることから、全盛期の江夏のストレートの初速は161キロ前後になる。
因みに、この方式で計測した中では江夏が最速であり、当時パ・リーグの速球王だった近鉄の鈴木啓示は152キロだったという(『牙―江夏豊とその時代』埼玉福祉会/後藤正治著)。
江夏豊が“引退”するまで「じつはメジャーで…」
後年、肘と肩を痛めて長いイニングを投げるのが困難になった江夏は、阪神からトレードされた南海で野村に出会い「革命を起こそう」と29歳で抑えに転向。クローザーとして史上初の両リーグMVPに輝くなど活躍したが、西武に移籍した1984年に管理野球の広岡達朗監督との確執から二軍で干され、引退を余儀なくされる。
まだやれる、と野球に未練を残していた江夏は「死に場所を求めて」(『剛球列伝』文春文庫)海を渡り、メジャーに挑戦した。野茂英雄が26歳でドジャース入りするより10年も前の1985年の春、江夏36歳のときだった。