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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「1回のチャンスを私にくれ」ラモス瑠偉が語った“傷だらけのループシュート”の真相…Jリーグ30年史に残る伝説のゴールはこうして生まれた!
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byShigeki Yamamoto
posted2023/12/18 17:02
Jリーグ“BEST GOAL"にも選ばれた伝説の芸術ループシュートにいたる真相を明かしたラモス瑠偉
「みんなに言ったんだよ。あなたたちに凄く迷惑を掛けてる。それは分かっている。ただ、1回のチャンスを私にくれ。そうしたら私、ゴール決めるから」
なぜそんなことを口にしたのか今でも分からない。自分の分まで走り、戦ってくれるチームメイトの頑張りは痛いほど伝わってきた。その一言によってチームにギアが入ったことを感じ取った。
「リベロだったら欧州でもやれる自信があった」
ラモスは読売クラブ、ヴェルディとともに歩んできた。ブラジルから来日して2年目の1978年には対戦相手の振る舞いに激高して追い掛け回し、1年間出場停止というあまりに重すぎる処分を受けた。香港行きの誘いがあるなかで、チームメイトの松木がいつも気に掛けてくれて、食事に誘ってくれた。松木の前で涙したこともある。ブラジルに戻らず、他のリーグに移籍することなく、理不尽な処分を甘んじて受け入れてサッカーに打ち込んだからこそ読売クラブへの愛情が深まっていく。
ただそんなラモスにもJリーグ開幕前に移籍話が具体化したことがある。1991年5月、横浜フリューゲルスの前身、全日空に行くことが決まりかけていた。金銭面というより読売でずっとプレーしてきたプライドを満たす条件ではなかった。しかしそればかりではなく、加茂周監督から受けた条件が魅力的に映った。
「加茂さんがリベロでやってもらうと言ってくれた。私はリベロでやりたかった。リベロだったら欧州でもやれる自信があったから。ただ最終的には決まらなかった」
ブラジルではリベロを本職としていた。読売の事情もあって足の速さとテクニックを買われて攻撃的なポジションで絶対的な地位を確立していくが、ずっとやりたいポジションでもあった。移籍話は消滅し、愛憎劇はむしろ絆を深める形にもなった。
「松木がいなかったら、私はきっと日本を離れていた。松木のおかげで残った。借りを返したい、松木を男にしたいという思いはどこか心になかにずっとあった」
ラモスは松木をはじめ仲間からリスペクトされた。練習の合間に「マッサージをする」と許可を取って抜けても、よみうりランドの長い階段を往復していた。30代半ばを過ぎても第一線でプレーできたのは、努力なくして語れない。最後にJSLを優勝したのが読売なら、最初のJリーグで優勝するのがヴェルディ。ワールドカップ出場とともにラモスの大きなモチベーションになったことは言うまでもない。
1993年5月15日、国立競技場が沸騰した横浜マリノスとのJリーグ開幕戦の興奮は今も忘れられないという。ピッチに入った瞬間、全身に電気が走るようだった。試合後、ライバルであり盟友の木村和司から声を掛けられた。
「なあカリオカ、ワシら幸せやろ。こんな舞台に立たせてもらったんだから」
2人の背番号10は幸せを噛みしめた。JSL時代、ガラガラのスタンドでサッカーをやってきた同志。心のなかで嬉し涙を流していた。
「自分にチャンスが訪れると確信したね」
記念すべき開幕イヤーはセカンドステージを制し、チャンピオンシップで鹿島アントラーズを倒して松木を男にした。ヴェルディとしての黄金期を築くべく奮起していたその延長線上に、2シーズン目のチャンピオンシップがあった。
ついにそのときが訪れる。