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「アントニオ猪木でも死ぬんだ」没後1年、燃える闘魂の遺骨は“ある場所”を旅していた…猪木番カメラマンが記した「猪木のいない1年間」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/10/06 17:00
アントニオ猪木は“永遠の旅人”なのかもしれない。1990年3月、セスナ機でブラジル・アマゾンの奥地に降り立った猪木
猪木はブラジルのジョアン・フィゲイレード大統領と昔から友人だった。1984年6月、大統領が国賓で来日した時には、六本木にあったブラジル料理のレストラン「アントン」に誘った。国賓が個人の店で夕食を取るのは異例中の異例だった。異常なくらいの警備だった。
私は会食中、外で待っていたのだが、「入ってくれ」と中に招き入れてくれたのはフィゲイレード大統領だった。猪木と美津子夫人や寛子ちゃんの姿を、大統領と一緒にカメラに収めることができた。
1990年、もうすでにフィゲイレード大統領は引退していたが、猪木は「ちょっとランチに行こう」と山中のさる別荘に車を走らせていた。「ちょっと」とは言っても、リオデジャネイロから2時間近く走った。
別荘の主である元大統領は半ズボン姿で迎えてくれた。昼食はやっぱりシュラスコだった。鉄串に刺さった大きな肉が豪快に焼かれる。猪木は嬉しそうにその鉄串を手にした。
「ヒロコもあんなに小さかったのになあ」
元大統領は、久しぶりに会う寛子さんに目を細めた。もう33年も前のことだ。
耳に残る猪木の言葉「オレは足跡を消したいんだよ」
猪木の言葉が耳に残っている。
「オレは足跡を消したいんだよ。フーっと風が吹いて砂漠が地形を変えるようにね」
自分について誰が何を語っても、「好きにすればいいよ。どうってことないよ」と猪木は言うのかもしれない。
この1年、猪木の夢を見たのは一度だけ、なぜかモハメド・アリと一緒だった。中国のどこかの木造の市場というか、薄暗い雑貨屋で私がフィルムを探しているシーンだったが、その続編にはまだ巡り合っていない。
時は流れていく。猪木と生きた時代が同じでも違っても、それぞれの人が感じた「アントニオ猪木」でいいと私は思う。
それが猪木なのだから。