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「アントニオ猪木でも死ぬんだ」没後1年、燃える闘魂の遺骨は“ある場所”を旅していた…猪木番カメラマンが記した「猪木のいない1年間」
posted2023/10/06 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
時間が経つのが早く感じられた1年だった。1年前の10月1日の夜、自らの目でその死を確認するために、信じられない気持ちで夜遅くにアントニオ猪木の自宅を訪問した。
忘れがたい風景。「猪木さん」と心の中で叫んで、「アントニオ猪木でも死ぬんだ」と思った。
NHKに生出演、カタールでも続いた「猪木取材」
翌日から何本かのテレビ番組に駆り出された。私はテレビで育った世代だが、テレビはあまり好きではない。時間に追われているからだ。テレビというのは大抵、無茶苦茶だ。でも、聞かれるがままに猪木を語った。
私は猪木の写真は撮ってきて、近くで見てきたが、そんなに猪木を語ることはなかった。NHK『クローズアップ現代』での桑子真帆アナとの対談は生だった。編集作業は番組開始直前まで続いていた。藤波辰爾らは録画なのに、「なんでオレだけ生? これは無謀ではないか」とも思った。
桑子アナはその数カ月前に番組で猪木に1度だけ会っていて、「マフラーを記念にいただいた」と微笑んだ。猪木が好きなのが伝わってきた。番組終了後は私のカメラに向かって「ダーッ」のリクエストに応えてくれた。
猪木さんのことだから、テレビもラジオも一つも断ることはしなかった。新日本プロレスの両国国技館大会での10カウント。そして通夜があり、葬儀があった。
11月にはカタールまでサッカーのワールドカップの取材に出かけたが、日本からの「猪木取材」は続いていた。それにはリモートで応じた。雑誌やスポーツ紙だけでなく、朝日や読売も入っていた。そして、「猪木を好きな人がこんなにいるんだ」と再確認した。
年末には両国国技館で格闘技の追悼イベントがあり、3月7日には同所で「お別れの会」が催された。ひとつひとつが形式的なセレモニーに過ぎないのかもしれない。それでも猪木に魅せられた人々が、そこに足を運んだ。同時進行のような形で猪木のブロンズ像の制作も進んでいた。