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アントニオ猪木が“全盛期でも倒せなかった”外国人レスラー…猪木vsロビンソン「伝説の一戦」はいかに実現した? 試合時間“残り1分”の奇跡
posted2023/10/06 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
東京スポーツ新聞社
10月1日で一周忌を迎えた“燃える闘魂”アントニオ猪木。10月6日には『アントニオ猪木をさがして』というドキュメンタリー映画が公開されるなど、亡くなったあともその人気は衰えることがない。
猪木は38年に及ぶ現役生活で数々の名勝負を残しファンを魅了してきたが、その中でも猪木生涯最高の名勝負のひとつとして数えられるのが、’75年12月11日に蔵前国技館で行われた“人間風車”ビル・ロビンソンとのNWFヘビー級選手権だ。
当時、猪木は新日本プロレスを旗揚げして4年目の32歳。この前年、’74年にはストロング小林、大木金太郎との大一番を制し「実力日本一」と呼ばれ始めたまさに全盛期だ。対するビル・ロビンソンは、国際プロレスで看板タイトルのIWA世界ヘビー級王座を獲得するなど、その実力は誰しもが認める「ヨーロッパ最強の男」。ロビンソン参戦当時の国際プロレスはTBSで全国放送されていたこともあり、人気も絶大だった。
60分3本勝負で行われたファン待望の夢の対決は、実力ナンバーワン決定戦と呼ぶにふさわしいハイレベルな熱戦となり、結果はロビンソン、猪木がそれぞれ一本ずつ取っての60分フルタイム時間切れ引き分け。当然、リマッチでの決着戦が期待されたが、結局これが猪木とロビンソン最初で最後の一騎討ちとなった。
猪木が取り逃がした“唯一の大物外国人”
通常、プロレスのライバル対決は、何度も対戦する中で試合内容を高めていくもの。しかし、猪木vsロビンソンはたった一度しか実現せず、しかも猪木が大苦戦した挙句、60分時間切れで勝てなかった試合だった。’70年代、全盛期の猪木が結局勝てずに取り逃した大物外国人レスラーはロビンソンしかいない。単に名勝負であるだけでなく、そういった意味も含めて伝説の一戦となっている。では、猪木vsロビンソンはどのようにして実現し、なぜ一度きりで終わってしまったのか。ロビンソンの歩みから紐解いてみよう。
ビル・ロビンソンは1938年イギリス・マンチェスター出身。15歳でイギリス・ウィガンにある通称「蛇の穴(スネークピット)」と呼ばれるビリー・ライレー・ジムに入門し、本格的なランカシャー式レスリングを身につけた超実力派レスラーだ。
19歳からプロレスラーとなり、イギリスをはじめとした欧州各国、さらにインドや中東各国など広範囲で活躍。’65年にホースト・ホフマンを破りヨーロッパヘビー級王座を、’67年には兄弟子ビリー・ジョイスを破り大英帝国ヘビー級王座を獲得し、’68年4月に「欧州最強の男」として国際プロレスに初来日をはたした。
当時、アメリカと比べて欧州のレスラーは地味な印象を持たれがちだったが、未知の技だったダブルアーム・スープレックス(人間風車)を日本で初公開したロビンソンは強烈な印象を残し、2度目の来日では第1回 IWAワールド・シリーズに優勝。国際のトップの証であるIWA世界ヘビー級王者となり、外国人でありながら同団体のエース的な立場に君臨。日本陣営で闘う外国人ヒーローの先がけとなった。