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「アントニオ猪木でも死ぬんだ」没後1年、燃える闘魂の遺骨は“ある場所”を旅していた…猪木番カメラマンが記した「猪木のいない1年間」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/10/06 17:00
アントニオ猪木は“永遠の旅人”なのかもしれない。1990年3月、セスナ機でブラジル・アマゾンの奥地に降り立った猪木
彼は私より8つ年上で猪木より5つ年下だが、猪木が本当に頼りにしていた男だ。裏方に徹し、猪木のために尽力した。猪木のことはなんでも知っていて、性格もよく理解していた。でも、今回はあえてここに名前は記さない。
話は尽きなかったが、「猪木さんは、やさしかった」という一言が猪木を言い表していた。
10月1日、私は昼も夜も後楽園ホールで過ごした。ファンが訪れた總持寺には行かなかった。棚橋弘至やオカダ・カズチカらが舞台挨拶に立った六本木での先行上映にも行かなかった。
「パパをラスベガスに…」命日に届いたメール
その日の夕刻、猪木の長女の猪木寛子さんからメールが届いた。
「パパをラスベガスのベラージオに連れて行きました」
メールには数枚の写真が添えられていた。この日、「猪木の骨」はラスベガスを旅していたのだ。私は、なぜか一人にっこりしてしまった。そういえば、「ラスベガスのカジノにも行きたいなあ」と言っていた。
プロレスラーとしての修行地でもあるアメリカのグリーンカードを持ち、アメリカが好きだった猪木。恋に落ち、女性を情熱的に愛し、いつか破局や別れを迎える。そんな繰り返しの人生。
結婚式でのあいさつは「反則は4カウントまで許される」。でも、人生のリングでは3回も「5カウントの反則負け」を取られてしまう。ああ、人生のホームレス。
「ロスのオリンピック・オーデトリアムのホットドッグはすごかったなあ」
「アイダホのアップルパイが食べたいなあ」
猪木は旅人だ。
定住しない砂漠の民のように、住居を変えた。サンタモニカやニューヨークにも住んだ。猪木はどの街にも自然に溶け込んだ。
あれは1990年3月だった。猪木はブラジルに行く途中のニューヨークで、まだ学生だった長女の猪木寛子さんと待ち合わせた。めったに会うことができない父と娘という親子の空間を、1カ月近くの中南米の旅で少しだけ埋めようとした。