ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「僕はたぶん、猪木さんに対して怒っていたんですよ」 アントニオ猪木の張り手に、デビュー4年目の棚橋弘至が“睨み返した日”の真相
posted2023/10/05 11:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Takuya Sugiyama
新日本プロレスの創設者である“燃える闘魂”アントニオ猪木が亡くなって、10月1日で早1年。10月6日には『アントニオ猪木をさがして』というドキュメンタリー映画も公開される。藤波辰爾、藤原喜明といった猪木の直弟子はもちろん、現在の新日本プロレスのプロレスラーも出演。“エース”棚橋弘至も映画の重要な場面で登場している。
棚橋は2000年代前半に低迷期と呼ばれた新日本プロレスを、新しいアプローチで立て直し、V字回復を成し遂げた立役者。それと同時に道場に飾られていた猪木の等身大写真パネルを外すなど、新日本で“脱・猪木”路線を進めた男でもある。
今、棚橋は猪木に対してどんな思いを抱いているのか。そして猪木とは違うやり方で新日本を再び盛り上げる中で、どんなことを考えていたのか。あらためてじっくりと話を聞いた。
◆◆◆
――猪木さんが亡くなられてから早1年になりましたが、棚橋さんが猪木さんと最後にお会いになられたのはいつですか?
棚橋 亡くなる2年くらい前だったと思いますよ。猪木さんの体調が多少いいときに、坂口(征二)さんを始め長州(力)さん、藤原(喜明)さん、北沢(幹之)さんといった新日本の初期の方々が集まって食事会を催されたことがあって、僕もなぜかそこに呼んでいただけたんです。
――今の新日本代表みたいな感じですかね。
棚橋 たぶん今の新日本のレスラーで猪木さんと関わりがあったのは、僕が最後なんですよ。お会いしたときは、いっぱいエネルギーをもらいました。
――2012年には、猪木さんと雑誌で対談されていますよね。
棚橋 はい。対談させていただきましたね。あの時、僕はIWGPヘビー級チャンピオンだったので、「猪木さんが作られたIWGPを僕がいま巻いてます」って、しょぼいなって思われないように胸を張ってましたね。猪木さんのあのオーラに負けないように、僕も精一杯オーラを出そうとして(笑)。
「あの角度で落ちて、よく生きてるな、と」
――もともと棚橋さんは新日本プロレスのファンだったわけですけど、ファン時代の猪木さんの印象はどうでしたか?
棚橋 僕は尊敬しかなかったですね。小さい頃からテレビで観ていて、大学生になってからは自分のお金で会場まで試合を観に行くようになりました。1996年の1・4東京ドームでの猪木vsベイダーも会場で観ていますし、1998年の引退試合も観に行きました。特にベイダー戦は興奮しましたね。あの試合は、僕があらゆる試合の中で、いちばん繰り返し観た試合です。