「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「広岡達朗にビールを勧められたリリーフエース」井原慎一朗がいま明かす広岡ヤクルトの“常軌を逸した猛練習”「メニューを見るのが怖かった…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2023/09/29 17:29
150kmを超える速球を武器に活躍した井原慎一郎。広岡達朗監督のもと、リリーフエースとして1978年のヤクルト初優勝、日本一に貢献した
広岡が範とする中村天風、藤平光一、そして新田恭一。共通するのはいずれも「軸を作る」ということだった。このとき、「新田教室」に呼ばれた投手は井原と、寒川浩司(75年ドラフト3位/78年限りで現役を引退)の2人だけだったという。井原の話は続く。
「心と身体が安定しなかったので、77年はまったく成績を残せなかったけど、ようやく78年になって感覚をつかみ始めてきたような気がしました」
井原が口にした「感覚」を詳しく説明してもらった。
「ある日、“足が地面に吸いつく”という感覚を覚えました。軸足である右足が地球に吸いついている。そんな感覚になったんです。すると、大地の力がそのまま指先まで伝わってボールに勢いが出てくる。最後の最後まで指先の力がボールに伝わっていくんです」
新田の指導を受け、井原は全力でネットスローを繰り返す。その傍らには常に広岡が控えている。ある瞬間から、「いいぞ、その感覚だ」「今の感じを忘れるな」と、広岡が口にし始めた。少しずつ、井原の才能が開花しようとしていた。
自主トレから休みなく続いた猛練習
彼の覚醒を促したもう一つの要因がある。それが、井原の言う「広岡さんの猛練習」だった。三原脩、荒川博ら、彼が仕えた歴代監督とは比較にならない練習量だった。
「広岡さんが監督になってから、練習量がものすごく増えました。特に78年はシーズン前の自主トレ段階から休みなく練習が続きました。今でも忘れられないのが、神宮のコブシ球場で400、300、200、100メートルと連続で行うインターバル走。タイム以内に走れないと、容赦なく“もう一本”と追加される。僕は走るのが苦手なので、本当にきつかった。あのとき初めて“練習メニューを見るのが怖い”と感じましたから(笑)」
このとき、広岡の頭にあったのは「故障するなら、してもいい」という考えだった。ここで脱落する者は、その後に控えたアメリカ・ユマキャンプに連れていかない。それは、「自主トレ」とは名ばかりの「ユマキャンプ選考会」でもあったのだ。