「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「広岡達朗にビールを勧められたリリーフエース」井原慎一朗がいま明かす広岡ヤクルトの“常軌を逸した猛練習”「メニューを見るのが怖かった…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2023/09/29 17:29
150kmを超える速球を武器に活躍した井原慎一郎。広岡達朗監督のもと、リリーフエースとして1978年のヤクルト初優勝、日本一に貢献した
食生活を含め、日常生活全般にわたって厳格だった広岡の意外な一面を井原が楽しそうに振り返る。69年ドラフト5位で丸亀商業高校からプロ入りした。ヤクルトアトムズ時代にはなかなか結果を残すことはできなかったが、74年、球団名がヤクルトスワローズとなる頃から、徐々に台頭。76年シーズン途中、広岡が監督に就任する頃には中堅投手となっていた。
77年シーズン、井原は0勝2敗1セーブに終わっている。しかし翌78年には、前述したように6月に月間MVPを獲得するなど、リリーフエースとして10勝4敗4セーブという好成績で、チーム初の日本一に大きく貢献している。改めて「井原慎一朗から見た広岡達朗」を振り返ってもらおう。
「足が地球に吸いつく」という感覚を会得
先に述べたように、日本一達成の前年となる1977年シーズン、チームは2位に躍進したものの井原は1勝もできずにシーズンを終えている。まずはこの年から振り返ってもらった。
「広岡さんの前任者である荒川(博)監督からはかなり目をかけてもらっていて、75年には7勝(7敗)を挙げたんですけど、それであぐらをかいてしまって成績が下降して、76年シーズン途中に広岡さんが監督になったら、ローテーションから外されてしまいました。それで、この年のオフに新田教室に通うことになったんです」
井原が言う「新田教室」とは、元野球選手であり、プロゴルファー育成で成果を上げていた「新田理論」の提唱者・新田恭一による指導だった。当時80歳になろうとしていた新田のことを広岡は信奉していた。そこでは、どんな指導が行われたのか?
「76年オフ、神宮球場の室内練習場に新田さんがきてくれました。そこで教わったのは、“軸を作る”ということと、“回転で投げる”ということでした。要は軸足できちんと立つこと。そして、下半身の力をきちんとボールに伝えることを教わりました。でも、このときは全然フォームが安定しませんでした。結局、心と身体がまったく一致しないままで77年を迎え、何も結果を残せないままシーズンが終わってしまったんです……」