Number ExBACK NUMBER
阪神優勝の9回表に流れた『栄光の架橋』、横田慎太郎は「この曲とともに甲子園で試合に出る」と誓っていた…鳴尾浜で目指した“脳腫瘍”からの復活
text by
横田慎太郎Shintaro Yokota
photograph byHideki Sugiyama
posted2023/09/16 11:01
優勝の瞬間、歓喜の輪には背番号「24」、横田慎太郎のユニフォームが加わっていた。優勝の直前、9回表に流れた『栄光の架橋』の秘話を紹介する
「よし、絶対にもう一度、この曲とともに甲子園の一軍の試合に出場してやる」
曲を聴きながら、あらためて決意しました。
シーズン中は鳴尾浜で毎日汗を流し続けました。
人より遅れているのだから、同じ練習量じゃダメだ
依然として一部の練習を除いてほかの人と同じメニューはこなせなかったし、試合にも出られなかった。目の状態も思うようには回復しませんでした。
それでも完全復帰の目標をあきらめることはなかったし、弱音を吐いたり、ふてくされたようなそぶりを見せたりもしなかったつもりです。
練習メニューのなかには普通の人でもきつい練習があって、トレーナーからは「疲れたらやめてもいいぞ」と言われましたが、自分からやめるとは言いませんでした。
いっさい手を抜かず、全力で取り組みました。
「人より遅れているのだから、同じ練習量じゃダメだ」
そう考えていました。
矢野燿大「横田はいい声をしているな」
また、試合に出られなくてもベンチには入れてもらっていたので、「いまの自分にできるのは声を出すことだ」と思い、グラウンドでプレーする選手たちに懸命に声をかけていました。
すると、当時は二軍監督だった矢野燿大(あきひろ)さんがほめてくれました。
「横田はいい声をしているな」
自分もチームの一員であることをあらためて感じることができ、大きな励みになりました。
ただ、寮でひとりになったときなどは、ふと不安な気持ちになったり、むなしさやさびしさを感じることもありました。依然としてボールがはっきり見えず、みんなと同じ練習をすることもかなわなかったからです。
「本当にもう一度打席に立てるんだろうか……」
そんな気持ちが、ふとしたときにわいてくるのです。
矢野監督が肩を叩きながら語ったのは…
矢野監督が声をかけてくれたのは、そんなときでした。