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阪神優勝の9回表に流れた『栄光の架橋』、横田慎太郎は「この曲とともに甲子園で試合に出る」と誓っていた…鳴尾浜で目指した“脳腫瘍”からの復活

posted2023/09/16 11:01

 
阪神優勝の9回表に流れた『栄光の架橋』、横田慎太郎は「この曲とともに甲子園で試合に出る」と誓っていた…鳴尾浜で目指した“脳腫瘍”からの復活<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

優勝の瞬間、歓喜の輪には背番号「24」、横田慎太郎のユニフォームが加わっていた。優勝の直前、9回表に流れた『栄光の架橋』の秘話を紹介する

text by

横田慎太郎

横田慎太郎Shintaro Yokota

PROFILE

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Hideki Sugiyama

 9月14日に優勝を決めた阪神タイガース。歓喜の輪の中には背番号24、今年7月に亡くなった横田慎太郎元選手のユニフォームがありました――。プロ入り後に脳腫瘍の診断を受け、闘病を続けながら2019年に引退した横田慎太郎さん。生前に書き残した『奇跡のバックホーム』(幻冬舎)より、現役時代の阪神選手との交流秘話をお届けします。(全3回の第1回)

特打で聞こえてきた『栄光の架橋』

 発病前、僕の身体は186センチ、96キロ。体脂肪率はひとけた台で、筋肉量は80キロでした。しかし、約半年の闘病生活を経て復帰したときには体重が80キロに落ち、逆に体脂肪率は20パーセントまで増えていました。それが、翌春のキャンプが始まるころには、体重90キロ、体脂肪率は10パーセントまで戻っていました。

 キャンプでは初日からランニングで最前列を走り、キャッチボールやトスバッティングをこなしました。その後は室内で別メニューになりましたが、ノックを受け、ティーバッティングなどを行いました。

 キャンプ後半になると、屋外でのバッティング練習が許され、ロングティーやヘルメットをかぶってのフリーバッティングもできるようになりました。それを見てくれた掛布さんは、「入院中の彼を見ていただけに、特打ができるまで元気になって、僕自身もうれしかった」と話していたそうです。

 フリーバッティングは、ほかの選手が昼食をとっているあいだに行いました。いわゆる「ランチ特打」です。

 2月24日、掛布さんや坂井信也オーナーも見守るなか、2回目の特打が終わりかけたころのこと。ある曲のイントロが聞こえてきました。

 ゆずの『栄光の架橋』。

 アテネオリンピックのテレビ中継のテーマソングとしてもおなじみのこの曲を、僕は入院中、何度も何度も聴いていました。いつごろだったかは憶えていないのですが、テレビで偶然耳にしたのがきっかけでした。

この歌詞いいなあ。おれと一緒だ

 もちろん、曲自体は以前から知っていました。でも、そのときは歌詞がテレビ画面に出た。それを見て、本当に自分にピッタリだと思ったのです。

「ああ、この歌詞いいなあ。おれと一緒だ」

 つらいときや落ち込んだときにいつも聴きました。抗がん剤治療に行く前にも聴いて、「よし、がんばろう」と自分を勇気づけていました。

 それで、育成選手として復帰してから、この『栄光の架橋』を自分の登場曲に選びました。甲子園で行われる試合に出場できたら、この曲とともにバッターボックスに入りたいと思ったのです。

この曲とともに甲子園の一軍の試合に出場してやる

 その『栄光の架橋』が、僕がランチ特打を行っているときに突然流れてきたのです。板山祐太郎さんの演出でした。

【次ページ】 人より遅れているのだから、同じ練習量じゃダメだ

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