ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「ババは俺を呼び戻すつもりか…」テリー・ファンク、40年前“感動の引退→即復帰”の真相…愛された外国人レスラーとファンの幸せな関係
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byKYODO
posted2023/08/31 11:00
1983年8月31日、蔵前国技館でのラストマッチで大声援に応えるテリー・ファンク
テリーのヒザの怪我が悪化していたのは事実であり、’83年8月の「引退試合」で、“日本での”レスラー活動を終了。1年間ほど休養したあと、全日本のブッカーとアメリカで限定的にプロレスを続けながら、俳優としての活動により力を入れる予定だった。事実、テリーは’83年8月から’84年末までアメリカでもプロレスは行っておらず、’85年には『ワイルドサイド』という西部劇のテレビドラマシリーズに準主役として出演している。
それがなぜ、わずか1年で日本でもプロレス活動を再開してしまったのか。それはテリー・ファンクというドル箱スターを失った全日本が、引退後も「テリー人気」を必要としたからだった。
復帰したテリーを、ファンは許さなかった
「1984年、ババからレフェリーをやってみないかと打診された。(中略)そして、その数カ月後にはツアーへの参加を打診され、それも引き受けることとなった。引退した日本でカムバックすることは、ファンのあいだでの評判を少し落とすことになる。だからといって、頼まれたから復帰したなどと言えるわけもない。俺自身、復帰がファンに対する裏切りになったことを知って心が痛んだが、団体から提示されたギャラは、それを断れないだけの額でもあったのだ」(『テリー・ファンク自伝』)
こうしてテリーは全日本の危機を救ったが、引退試合からわずか1年で現役復帰を宣言したことで、人気を失ってしまう。当時はファンも純粋だったため、あれだけ盛大に涙の別れをしたあと、1年で復帰してしまったテリーを許さなかった。そのため復帰してもあの頃のような熱気が戻ることはなく、テリーは全日本を静かにフェードアウトしていった。
日本でのアイドル人気を失ったテリーだったが、母国アメリカではその後もヒールのトップとして、WWF(現WWE)王者のホーガンやWCW王者のリック・フレアーと抗争を展開。そして50歳を超えてから、ハードコア団体のECWで“リビング・レジェンド”として再ブレイク。テリーが晩年まで、アメリカの若いファンにもリスペクトされ続けたのは、ハードコアスタイルのパイオニアとしての評価が大きい。
テリーと日本のファンに訪れた“心の和解”
そして、少年少女だった日本のテリーファンも大人になって、あの引退の“事情”を理解し、長年の激闘でボロボロになったテリーをまた愛せるようになった。テリーと日本のファンが心の和解をはたすのには、10年以上の時間が必要だった。
後年、テリーやドリーが何年かに一度来日すると、当時私設応援団や親衛隊を結成していた、“かつての少年少女ファン”たちが、同窓会のように会場に集まる姿がよく見られた。
「引退試合」以降いろんなことがあった。プロレスやテリーから気持ちが離れたこともあった。でも少年少女時代の“好きで好きでたまらない”という、あの純粋な気持ちだけは永遠だった。40年前の83年8月31日、蔵前国技館での引退試合で、涙ながらに「フォーエバー! フォーエバー!」と叫び続けたテリーの言葉は本物だったのだ。