- #1
- #2
ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「だらしねえな」屈辱の敗戦…大人気の裏で“タイガーマスク前夜”の佐山聡はなぜ葛藤したのか? 運命を変えたアントニオ猪木の“ある言葉”
posted2023/08/12 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
今から40年前、新日本プロレスに大激震が走った。1983年8月10日、当時のプロレスブームを牽引していた立役者である(初代)タイガーマスクこと佐山聡が、新日本と『ワールドプロレスリング』を放送するテレビ朝日に対して契約解除を申し入れる旨を記載した文書を内容証明郵便で送付。その翌日、東京スポーツ新聞社を通じ引退を表明し、8月12日にはタイガーマスクと私設マネージャーのショウジ・コンチャが新日本事務所を訪れ辞表を提出。保持していたNWA世界ジュニア、WWFジュニアの2本のベルトも返上し、正式に新日本退団を発表した。
人気絶頂の最中の突然の引退(新日本離脱)。あの時、タイガーマスクと新日本プロレス内部では何が起こっていたのか。佐山本人の証言も交えて振り返ってみたい。
◆◆◆
初代タイガーマスクこと佐山聡は、他に類を見ない特異な才能を持った選手だった。彼の登場によって、プロレスの歴史と格闘技の歴史は大きく変わった。立体的な空中殺法が、ジュニアヘビー級の“必須科目”となったのはタイガーマスクからであり、キックボクシングスタイルの本格的な蹴りもタイガー以前のプロレスにはほとんどなかった。飯伏幸太に代表される現代の最先端のプロレスは、40年以上前からタイガーマスクだけがすでにおこなっていたのだ。
格闘技界に目を向けても、佐山の影響は絶大だ。現在のMMA(総合格闘技)のルーツのひとつに佐山が創設したシューティング(現・修斗)があることに、異論がある者はいないはず。’70年代後半、新日本プロレスの若手だった佐山の部屋の壁には「真の格闘技は、打撃に始まり、組み付き、投げ、関節技で極る」と大書きした紙が貼られていた。80年代半ばに誕生した「打・投・極」を組み合わせたシューティングという新格闘技は、佐山の発明であり、その試行錯誤の先に現代MMAがある。
現代のプロレスと総合格闘技は、初代タイガーマスク、佐山聡から始まっていると言っても過言ではない。その原点には昭和の新日本プロレスがあった。当時の新日本は、リング上ではエンターテインメント性を含んだ闘いで大衆を魅了する一方、道場では“セメント”と呼ばれた関節技のスパーリングで腕を磨き、リアルな強さを求めた。そんな土壌が、プロレスと格闘技両方に多大なる影響を与える初代タイガーマスク・佐山聡を生んだのである。
猪木に告げられた「おまえを(格闘技)第1号にする」
佐山の新人時代、アントニオ猪木は異種格闘技路線の真っ只中。伝説のモハメド・アリ戦(’76年6月26日、日本武道館)は、佐山のデビュー1カ月後に行われた試合だ。総帥・猪木が他の格闘技のチャンピオンたちと闘い、配下のレスラーたちも一丸となって強さを求めていく。そんな当時の新日本の姿勢が、若い佐山にプロレスへの誇りと情熱を植え付けていった。