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「ババは俺を呼び戻すつもりか…」テリー・ファンク、40年前“感動の引退→即復帰”の真相…愛された外国人レスラーとファンの幸せな関係 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2023/08/31 11:00

「ババは俺を呼び戻すつもりか…」テリー・ファンク、40年前“感動の引退→即復帰”の真相…愛された外国人レスラーとファンの幸せな関係<Number Web> photograph by KYODO

1983年8月31日、蔵前国技館でのラストマッチで大声援に応えるテリー・ファンク

「正直なところ、引退試合をやっていなかったら…」

「この引退アングルもイノキと競い合う上で必然的に出てきたものだった。(中略)ファンがずっとついてきてくれるような何かをオールジャパンに与えたかった。俺のアイデアは前もって引退を発表して、引退するまでの展開をゆっくりと組み立てていくというものだった。

 ババや兄貴(編注・ドリー・ファンクJr.)とも相談はしたが、2年間かけて展開させていくというアイデアを考えたのも、やると決めたのも自分自身だった。俺が引退までの展開を組み立てていく期間に、オールジャパンが俺の引退後も団体を引っ張っていける勢いを持った他の何かを考えるだろうと思った。

(中略)正直なところ、この時期に引退試合をやっていなかったらオールジャパンはイノキに人気を食われてしまって、長続きはしなかっただろう。1981年当時、ニュージャパンは俺たちのはるか先を突っ走っていた」

テリーにとって全日本は“出稼ぎ場”ではなかった

 なぜ、外国人レスラーであるテリーが、自らのキャリアを犠牲にしてまで話題作りをして、全日本を救おうとしたのか。じつはテリーと兄ドリーのザ・ファンクスは、’72年の全日本旗揚げ当初からレスラーとしてレギュラー参戦するだけではなく、外国人レスラーのブッキング(契約仲介)を一手に引き受けていた。それだけにテリーにとって全日本は、単なる“出稼ぎ場”ではなく“自分の団体”であり、強い愛着も持っていたのだ。

 このテリーによる「引退ツアーの熱気で全日本を救う」というアイデアに乗ったのが全日本プロレスを放送する日本テレビだった。当時、日本のポップカルチャーでは、’78年のキャンディーズ解散に始まり、’80年の山口百恵引退、アリス解散など、人気絶頂時の引退・解散が一種のブームとなっていた。日テレはこの流れに乗って、複数回の特番を組んで、テリー引退を盛り上げていったのだ。

 プロレス界では初となる人気絶頂時での引退発表は狙い通り大反響を呼び、テリーが参戦するシリーズは引退が近づくにつれて尻上がりで観客動員数を伸ばし、’83年の『テリー・ファンクさよならシリーズ』は、タイガーマスクブームに沸く新日本に劣らぬほど、各地で超満員を記録した。

「本当の引退だと思っていた。だがババは…」

 こうして全日本を救うために決まったテリー・ファンクの引退だったが、当初から復帰を考えていたというのは正確ではない。『テリー・ファンク自伝』で、引退時の心境をこう語っている。

「俺にとってあの晩の引退セレモニーはとてもリアルなものだった。本当に感極まってしまったし、ファンも同じだっただろう。会場に呼んでいた娘たち(編注・テリーの娘ふたり、ステイシーとブランディ)もやっぱり泣いていた。あのセレモニーは“ワーク”なんかじゃなかった。本当の意味での引退だったし、自分でも本当の引退だと思っていた。裏方としてやっていくだけの知識も得ていたし、その決心もついていた。

 だが、ババは試合前日になっても俺と別れることや、俺との仕事を終える話題に全然触れてこなかった。だから将来的には俺を呼び戻すつもりなのかもしれないという考えが頭をよぎった」

【次ページ】 復帰したテリーを、ファンは許さなかった

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