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「ババは俺を呼び戻すつもりか…」テリー・ファンク、40年前“感動の引退→即復帰”の真相…愛された外国人レスラーとファンの幸せな関係
posted2023/08/31 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
KYODO
プロレス界のスーパースター、“テキサス・ブロンコ”テリー・ファンクが亡くなったことが、8月23日、アメリカのメジャープロレス団体WWEから発表された。享年79。
テリー・ファンクといえば、日本のファンに最も深く愛された外国人レスラーだった。もちろん、テリー以外にも日本のファンに愛された外国人レスラーはこれまでたくさんいたが、70年代後半から80年代にかけて、少年少女ファンがまるで恋に落ちるかのように夢中になり、虜になったレスラーはテリーをおいて他にはいない。
テリーにはファン有志による親衛隊がいくつも結成され、試合になると揃いのチアガール衣装を着た女の子たちが、ポンポンを持って応援する姿が見られた。そんなレスラーは、後にも先にもテリー・ファンクだけだ。
当時、熱心なファンの中には、わざわざテリーの住むアメリカ・テキサス州の田舎町アマリロまで、“聖地巡礼”のごとく訪れる人も少なくなかった。テリーファンにとってのアマリロは、ビートルズファンにとってのリヴァプールなのだ。
涙と感動に包まれた「40年前の引退試合」
そんなテリー・ファンクは、今から40年前、1983年8月31日に盛大な引退試合を行っている。「テリー・ファンクさよならシリーズ」と題されたツアーで全国を回り、ラストマッチは数々の名勝負を残した思い出深い蔵前国技館。テリー最後の勇姿をひと目見ようと全国からファンが集まり、涙と感動のうちに幕を閉じた。
しかし、そのわずか1年後にテリーは現役復帰を宣言。あまりにも早すぎる復帰にファンは「裏切られた」と感じ、テリーとファンの幸せな関係はそこで一度壊れてしまうのだ。
テリーはなぜ、当時39歳というレスラーとして脂が乗った時期に引退試合を行い、たった1年で復帰してしまったのか。それを知るためには、まず当時の日本プロレス界の状況を知る必要がある。
なぜテリーはたった1年で復帰したのか?
1970年代から’80年代にかけて、日本のプロレス界はジャイアント馬場率いる全日本プロレスと、アントニオ猪木率いる新日本プロレスが、ライバルとして熾烈な争いを繰り広げていた。’72年の旗揚げ当初こそ、日本テレビの強力なバックアップを受けた全日本がリードしていたが、70年代半ばにエース猪木が全盛期を迎えていた新日本が形勢を逆転。猪木より5歳年上の馬場は選手として下り坂で、全日本は徐々に苦境に陥っていく。
’80年代に入るとそれはさらに顕著となり、新日本がプロレスブームを謳歌する一方、全日本は観客動員とテレビ視聴率がともに苦戦を続けていた。
このままでは全日本は潰れてしまうのではないか? そんな不安が広がる中、立ち上がったのがテリー・ファンクだった。全日本最大のスター選手だったテリーが’80年10月、突如「3年後に引退」する意向を明かし、翌81年に正式に発表。これは古傷であるヒザの怪我が悪化したためでもあったが、じつはブームを巻き起こしていた新日本への全日本の対抗策という意味合いのほうが強かった。
テリーは『テリー・ファンク自伝』(テリー・ファンク&スコット・E・ウィリアムス著/エンターブレイン刊)の中で、“引退”を決めた理由をこう語っている。