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ヤクルト配達に八百屋、北新地のバーでも…大阪桐蔭吹奏楽部の“カリスマ”梅田隆司監督の波乱万丈すぎる半生と「野球部愛」の原点〈人気ブラバン徹底解剖〉
text by
梅津有希子Yukiko Umetsu
photograph byHaruka Sato
posted2023/08/22 11:02
部活専用のシンフォニックホールで行う大阪桐蔭吹奏楽部の練習風景
吹奏楽部では、トランペットを担当した。卒業後は、家が経済的に苦しかったこともあり、定時制高校に進み、昼間働きながら、夜間は学校に通った。
「仕事はいろいろやりました。最初はヤクルトの配達。証券会社の黒板を書く仕事や、八百屋さんでも働きました。キャベツや白菜、トマトを持って『へいらっしゃい!』って売っていましたね。朝5時から10時間くらい働いて、体を壊してしまい、留年。5年かかって高校を卒業しました。大変でしたけど、友達とバンドを組んだりして楽しかったですよ」
転機は「北新地のバー」に…
当時はグループサウンズ全盛。バンドではキーボードを弾いていたという。働いてためたお金で高校2年生の時にピアノを習い始め、ローンを組んでピアノを購入した。
「卒業後に、友達から『ピアノの仕事せえへん?』と誘われて、北新地のバーで弾くようになったんです。景気のいい頃だったので、とてもいい給料をもらっていました。ただ、お酒は飲めなかったんですけどね」
最初は「わりと場末のバーだった」というが、経験を重ねるごとに高級店で弾くようになった。派手な夜の世界で鍵盤を叩きながら、目標に定めた「音楽の先生」になるため、地道に貯金していたという。
「最後のほうは、アーティストの方々も来るようなクラブで伴奏したりしていました。歌謡曲やスタンダードジャズ、ポップス系など、いろいろな人の好みを勉強させてもらいましたね。社長さんやお医者さんなど、いろんなお客さんのリクエストに応えて演奏することも多かったです」
このエピソードを聞いて、「なるほど」と合点がいった。現在大阪桐蔭吹奏楽部がコンサートでやっている「リクエストコーナー」を、梅田氏は20代の頃からピアノでやっていたのだ。