甲子園の風BACK NUMBER
「また始末書ですわ」大阪桐蔭の野球部部長は頭を抱えた…32年前の“やんちゃ桐蔭”がそれでも強かった理由「天才的なゲーム勘を持つ監督がいた」
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph byJIJI PRESS
posted2023/08/03 10:32
1991年夏の甲子園初出場で優勝を掴み取った大阪桐蔭。一体、どんなチームだったのか
大会期間中の練習を筆者がのぞいた際、帰りのバスに同乗させてもらうことがあった。部外者は座りにくいものだが、白石が「吉岡さん、ここ座り」と招いてくれて助かったものだ。
そんな心優しき副主将が自身の殊勲打を冷静に振り返ったのは、確か秋の石川国体の時になってからだった。「実はね僕、ガチガチに緊張していて、とても平常心ではいられなかった。なにしろバットを他のメンバーのと間違えたぐらいですから」と打ち明けた。逆転勝利を続けてきた自信家揃いの集団も、その心のうちでは一般の球児同様、プレッシャーに直面し、苦しんでいた。
人命救助を自慢しない大阪の“あんちゃん”たち
仲間思いの白石に移動バスの車内で、「おもろいネタないか?」と軽い気持ちで尋ねたところ、「ありますよ」と即答して、こんな話を教えてくれた。
話はセンバツ前のまだ寒い時期のこと。沢村と井上が整骨院での定期治療を終えた帰り道、夕暮れの住宅街で民家からかすかに火の手があがっているのを偶然発見した。人通りはない。携帯電話も普及していない時代。2人は近くの民家のドアを叩き「火事です。119番!」と叫んだ。通報が早かったため、被害は最小限で済んだ。火元の住宅は独居老人が暮らしており、発見が遅れていたら大惨事になっていたかもしれない。
消防に直接通報したわけではなかったので表彰はされなかったという。本人に確認を取りに行くと、沢村は「へへっ」と一笑に付し、井上も「そんなこと、ありましたねえ」と素っ気なく話した。そりゃそうだろう。こちらは“高校球児が人命救助”の美談として話を盛りたくてたまらないが、当事者にしてみれば当然のことだし、それを吹聴するつもりなどカケラもないはずである。
選手たちは過度に誇ることもなければ、マスコミ慣れをして“スカしている”わけでもない。当時の「王者・大阪桐蔭」は今のように全国から有望株が集結しているエリート軍団の印象はなく、腕に自信ありの関西の“あんちゃん”たちが集い、どこか浪花節の香りが漂うチームだった。
<続く>
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