甲子園の風BACK NUMBER
「また始末書ですわ」大阪桐蔭の野球部部長は頭を抱えた…32年前の“やんちゃ桐蔭”がそれでも強かった理由「天才的なゲーム勘を持つ監督がいた」
posted2023/08/03 10:32
text by
吉岡雅史Masashi Yoshioka
photograph by
JIJI PRESS
大阪桐蔭、敗れる――。7月30日、大阪大会決勝で履正社に屈した常勝軍団の一報は全国を駆け巡った。春夏優勝9度、敗北が衝撃をもって受け入れられるほど「勝利」が当然視される名門校。今の常勝軍団への足がかりとなった1991年夏の甲子園初出場と初優勝を、当時取材していた日刊スポーツの元記者が振り返る。(全3回の第2回、前回は#1、#3につづく)
後年明かされた「このケガが治ることはなかった」
センバツはベスト8。夏でのさらなる飛躍を誓ったナインだったが、大阪大会3回戦で“因縁の相手”に大苦戦を強いられる。
対戦相手の北陽は1年前、エース寺前正雄(1990年近鉄ドラフト1位指名)を擁し、2年生の萩原らは手も足も出ず、完封負けをしてやられていた。
試合開始からリードを奪われるも、和田の後を継いだもうひとりのWエース背尾が6イニング1失点の好リリーフで踏ん張り、8回裏にようやく光武敬史、足立昌亮の二塁打などで5点を挙げて辛くも逆転勝ちを収めた。この試合でライトを守っていた萩原は打球を負った際に味方と交錯し、足を痛めている。このケガが治ることはなかったと本人が打ち明けたのは、ドラフト1位入団の阪神で6年、近鉄に移籍して4年の計10年のプロ生活を終えてからだった。
主将が「危ないやろ」と激高
北陽戦では、当時は書くことをためらう出来事があった。
キャプテン・玉山雅一の打席で2球続けて顔面近くをボールが通過。「危ないやろ」と激高したところ、蹴り上げた土がキャッチャーにかかってしまった。すぐにゲームは再開されたが、試合後、選手より遅れて球場から引き揚げてきた森岡は頭を抱えていた。「また始末書ですわ。4回目や」。高校野球に始末書提出があることなど、当時駆け出しの記者だった筆者は知る由もなかった。昨今、大阪桐蔭の選手が対戦相手にコールドスプレーやペットボトルを手に駆け寄っていく姿を見るたびに、森岡の悲痛な声を思い出す。