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「あいつを殺してやりたい!」野村克也監督の激怒に大慌て…元ヤクルト監督・真中満がノムさんに学んで2年連続最下位→優勝させた「選手操縦術」
posted2025/05/07 11:02

1997年日本シリーズ第2戦。このシリーズ全試合に1番センターで出場した真中満が野村克也監督から受けた影響は大きいという
text by

佐藤春佳Haruka Sato
photograph by
Hideki Sugiyama
明るいキャラクターで、プロ野球解説からバラエティ番組のMCまで活躍の場を広げる真中満氏。ヤクルトの監督を務めた3年間では、就任1年目の2015年に球団として14年ぶりのリーグ優勝を果たした一方、17年にはシーズン96敗を喫するなど天国も地獄も味わった。指揮を執った者しか味わえないプロ野球監督の“リアル”とは? 偽らざる本音トークで明かした。〈全3回の1回目/第2回、第3回も公開中〉
監督としての原点には、あの大きな背中がある。真中氏が日本大学からヤクルトに入団した1993年当時、指揮をとっていた故・野村克也さんだ。
これぞ監督、という雰囲気で
「アマチュアから入って1年目の監督が野村さんですから、やっぱり衝撃はありました。これぞ監督、というような雰囲気……顔もたぬきみたいだし、雰囲気もどっしりした感じでしたからね」
野村監督時代、キャンプの“名物”でもあった夜間ミーティングは夕食後の夜7時過ぎから行われていた。野球技術や「野村ID」の理論はもちろんだが、心に残っているのは人間としての在り方の話だという。
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「当時はアリゾナキャンプでしたけど、一体どんな話をするんだろうと興味津々に耳を傾けていました。人としての哲学的な話が多くて、社会人として立派に生きていけ、ファンあってのプロ野球だ、マスコミはペンで人を殺せる、マスコミを味方につけろ、とかね。野球以外の部分を最初に徹底的に叩き込まれましたね」
イメージと違って、雰囲気は自由闊達だった
入団3年目の95年に頭角を現し、飯田哲也とセンターのポジションを争う形で試合に出続けた。97年には1番打者としてセ・リーグ制覇と日本一に貢献。野村監督にとって生涯最後の優勝となる戦士たちの一員となった。
当時の野球界では先駆けとなる「データ野球」や、服装や外見、礼儀を重んじる野村監督のイメージから、規則や“型”に厳しいと思われがちだが、実際のチームは自由闊達な空気だったと真中氏は言う。