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「(ジャイアント)馬場さんが激怒して…」8年ぶりのBI砲に武道館が沸いた“オールスター戦”はなぜ1回で終わったか? 返された“300万の小切手”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/06/14 11:00
1979年に開催された「プロレス夢のオールスター戦」では、8年ぶりのBI砲結成に武道館が沸いた
実現寸前だった“第2回”はなぜ開催されなかったのか?
こうして“公約”されたはずのBI対決は幻となり、猪木と馬場の両巨頭が揃うオールスター戦もこれが最初で最後となったが、じつは1982年に再び東京スポーツが主導で第2回『プロレス夢のオールスター戦』が水面化で企画され、実現寸前までいったことがあった。
その顛末を、当時の新日本プロレス取締役営業本部長の新間寿はこう語っている。
「80年代に入ってから、新日本と全日本の外国人レスラー引き抜き合戦が始まってね。最初にウチがブッチャーを引き抜いたんだけど、逆にシンを引き抜かれ、最終的にはスタン・ハンセンまで取られたことで、新日本が白旗を上げたわけですよ。それで東スポに仲裁に入ってもらい、全日本と引き抜き防止協定を結ぶかたちで休戦となったわけだけど、その時に第2回『夢のオールスター戦』の話が持ち上がったんです」
当時の新日本は、初代タイガーマスク人気で大ブームを巻き起こしていたが、猪木の個人的事業であるアントン・ハイセルが火の車となり、資金繰りに困窮していたため、この案にすぐ飛びついたのだという。
「情報を漏らした東スポに馬場さんは激怒して…」
「あの頃はすぐにでもカネが必要だったから、東スポの本山社長のところに行き、『先に手付金をください』とお願いして300万円の小切手をきってもらってね。馬場さんにも同額の小切手が渡されたんですよ。それで新日本はすぐ換金して右から左だったけど、馬場さんは『また猪木が土壇場で裏切るかもしれない』と、小切手には手をつけずに、返事を渋っていたんです。そしたら東スポの大会責任者がしびれを切らして、全日本の米沢(良蔵=渉外部長)を呼んで、『こっちは馬場さんにもうカネ渡してあるんだから、早く返事をしろ!』と言ってしまった。
でもこの話は極秘で進めていたものだからね。情報を漏らした東スポに馬場さんは激怒して、『これはお返しします』と小切手を返して断りをいれた。こうして第2回のオールスター戦は、幻に終わったんですよ。まあ、東スポがミスをしていなくても、馬場さんが猪木さんを信用してなかったから、実現しなかったかもしれないけどね(笑)」
その後、新日本と全日本の交流は、猪木が89年に参議院議員選挙に初当選して第一線を退き、坂口征二が社長となったあと、90年2月10日の新日本プロレス・東京ドーム大会で行われたが、馬場と猪木がリングで並び立つことは、ついになかった。
8.26「夢のオールスター戦」は、ファンにとって本当の意味で一夜限りの夢だったのだ。
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