ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「(ジャイアント)馬場さんが激怒して…」8年ぶりのBI砲に武道館が沸いた“オールスター戦”はなぜ1回で終わったか? 返された“300万の小切手”
posted2023/06/14 11:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアの合同興行『ALL TOGETHER AGAIN 元気があれば何でもできる!』が6月9日、両国国技館で行われた。
『ALL TOGETHER』は2011年8月27日の日本武道館と、2012年2月19日の仙台サンプラザホールで、東日本大震災復興支援チャリティー興行として開催。今回は「コロナ禍による混沌からのリスタート」を掲げて『AGAIN』として開催する運びとなった。
前回の『ALL TOGETHER』開催以降も各団体同士の交流戦、対抗戦は何度も行われてきたが、いわゆるメジャー3団体が一堂に会する機会はじつに約11年4カ月ぶり。日本プロレス界の歴史を振り返ってみても「オールスター戦」と呼べる規模の大会は数えるほどであり、このようなビッグイベントは業界の興行的な切り札であると同時に、開催のためには毎回多くの問題をクリアしなければならないものでもある。
1979年「夢のオールスター戦」の実現は“奇跡”だった
いまも昭和からのプロレスファンの間では語り草になっている1979年8月26日、日本武道館で開催された『プロレス夢のオールスター戦』(東京スポーツ新聞社主催)は、そういった意味で奇跡的に実現したものだった。
この大会は、新日本、全日本、国際プロレスという当時の(男子)3団体すべてが一堂に会した文字通りのオールスター戦だったが、昭和の時代に団体の垣根を越えた闘いを実現するには、現代以上にさまざまな問題が山積していた。
そもそもアントニオ猪木の新日本とジャイアント馬場の全日本は、長い“冷戦”状態にあり、新日本と全日本の交流自体、72年の両団体旗揚げ以来一度も実現しておらず、その両団体が揃うオールスター戦の実現は、半ば不可能かと思われていたのだ。
それが実現したのは、猪木と馬場が自主的に歩み寄って合同興行を行ったのではなく、プロレス報道の老舗である東京スポーツ新聞社(東スポ)が、創立20周年記念事業として開催すべく動いたからだった。
東スポの当時の社長、本山良太郎が新日本の猪木、全日本の馬場、国際の吉原功社長を直々に口説き、さらに東スポ仲介で猪木と馬場の頂上会談が非公開で実現。「業界発展のため」という大義名分のもと、3団体の代表を同じテーブルにつかせることに成功し、開催に向けた具体的な話し合いが行われることとなったのだ。