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アントニオ猪木を引っ叩いて「立て!クソジジイ!」 鈴木みのる(当時20歳)が猪木をキレさせた“伝説の第1試合”の真相
posted2022/06/11 17:01
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Essei Hara
かつて総合格闘技PRIDEのリングで大活躍すると同時に、新日本プロレスのIWGPヘビー級王者にも君臨。“猪木イズム最後の継承者”と呼ばれた藤田和之が、いまプロレスリング・ノアの第1試合から“出直し”をしている。
藤田は今年の2.23名古屋大会で中嶋勝彦を破り、ノアの至宝であるGHCヘビー級王座を奪取。その後、プロレスリング・ノア入団を発表し、4.30両国国技館大会で2度目の防衛戦が決まっていたが、新型コロナウイルスの陽性反応が出たため欠場し王座を返上。
5.21大田区総合体育館大会で復帰すると、両国大会欠場を謝罪した上で第1試合での出直しを宣言。ノアのヘビー級のホープ岡田欣也とシングルで対戦し片逆エビ固めで一蹴すると、試合後は岡田に対し「もっと元気がほしいですね。普段上の人とやると気を使うんでしょうね。俺なんか全然気をつかわなくていい。若い選手にはもっともっと打つところはしっかり打って、やってみせないと。(中略)プロレスがなめられないように」と、苦言を呈した上で奮起を促した。
異例の第1試合に出場し続けたアントニオ猪木
この藤田の第1試合からの“出直し”に、かつてのアントニオ猪木を思い出したオールドファンもいることだろう。
時は昭和から平成に変わったばかりの1989年。2.22両国国技館大会で長州力に完璧なフォール負けを喫した猪木は、「一から出直し」を期して、2月25日から開幕した「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦から異例の前座第1試合に出場したことがあった。
当時は新日本のテレビ放送がゴールデンタイムを外れて1年が経とうという時。観客動員数も激減し「冬の時代」と呼ばれた苦しい時期だった。猪木の第1試合出場は自分自身の出直しとともに、今一度、新日本全体に喝を入れるという意味合いもあっただろう。
そのため猪木は第1試合を終えて着替えると、竹刀を片手にリングサイドに陣取り、そのまま全試合に目を光らせ配下の選手に無言のプレッシャーを与えたのだ。結局、猪木はこのままシリーズ中、第1試合に出場し続けたが、それに異議を唱える者が現れる。当時、弱冠二十歳のヤングライオン、鈴木実(現みのる)だ。
20歳の鈴木実「俺は“1”以下なんですか?」
鈴木はあの時のことをこう語っている。
「当時、俺が一番下っ端の若手で、毎回第1試合でやってたんだけど、猪木さんがそのシリーズだけは毎日第1試合に出ることによって、俺の試合が第2試合になった。その時、すげえ嫌な気持ちになったんだよね。ずっと『新日本の第1試合は大事なんだ』って言われてきて、俺もその気持ちで誇りを持ってやってきたのに、上から降りてきた猪木さんに押し出される形で第2試合になって。実質上『1ですらない』ということが気に入らなくてね。
しかも猪木さんは前座の第1試合でも、付き人がついて、ガウンを着て、テーマ曲をかけて入場して、対戦相手も上でやってた外国人でね。それで繰り上がったはずの第2試合の俺たちは、テーマ曲なしだからね」