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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
大谷翔平や宇田川優希らを生かす「遠心力野球」、2番近藤健介と「流線型打線」…三原マジックは“WBC栗山マネジメント”の源泉だった
posted2023/04/26 18:46
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS/Naoya Sanuki
西鉄ライオンズは1950年に西鉄クリッパースとして創設されたが、翌年、同じ福岡を本拠とする西日本パイレーツと合併して、西鉄ライオンズになった。「ライオンズ」はファン公募で決まった愛称だ。
西鉄はクリッパースとパイレーツという色合いの違うチームの寄せ集めだったが、三原は監督に就任すると短期間でこのチームを自分のカラーに染めていった。後編ではその経緯、そしてWBC侍ジャパンとの類似点について見ていこう(全2回/#1も)。
巨人時代は短気だった三原が西鉄で見せた配慮
巨人時代は「三原ポカリ事件」を起こすほどに短気で、強引な手腕も目立った三原だが、新興西鉄では随所に深い配慮を見せた。
二リーグ分立後、巨人の選手が新興球団に選手や指導者で移籍するケースが多く見られたが、彼らは「巨人ではこうだった」「巨人の選手はこうした」と、何かにつけて巨人を引き合いに出した。それは新興チームの選手のプライドを傷つけたが、三原は巨人の名は一切口にしなかった。その代わりに「大リーグのような野球をしよう」と言った。三原は人間関係の機微を知っていたのだ。
三原ライオンズは1年目、南海と18.5差ながら2位になった。2年目に「赤バットの川上哲治」と並ぶ大スターの「青バットの大下弘」を東急から獲得。さらに高松一高から中西太、翌年水戸商の豊田泰光と、今ならドラフトで複数球団が指名するであろう超大物高校生を獲得するなど戦力を充実させて4年目の1954年に初優勝を果たす。
チームは寄せ集めだった。東急から来た大スターの大下弘、高卒上がりの中西、豊田、以前から主力選手だった関口清治、野口正明、巨人時代は三原の部下だった川崎徳次、出身も年齢もバラバラの選手たちを、三原脩はまとめ上げた。前述のように「巨人風」を吹かせることなく、一人ひとりを「大人扱い」しながら勝利を目指した。
三原が育った巨人、そして西鉄の最大のライバルだった南海は、水原茂、鶴岡一人という強烈な指導力のあるカリスマ指導者が、一騎当千の選手たちを使いこなしていた。特に鶴岡一人は「鶴岡御大」と呼ばれ、全権を委任され、選手獲得からチーム編成までを担い、意のままに選手を使って強力なチームを作った。
私生活に介入しないが結果を求める「遠心力野球」
しかし三原はそうではなかった。後年、三原は自らの采配を「遠心力野球」と称している。