- #1
- #2
酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
WBC栗山英樹監督62歳が心酔「三原メモ」伝説の名将だが…巨人時代は色々モメてた?「三原脩vs水原茂の遺恨」が生まれるまで
posted2023/04/26 18:45
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS/Takuya Sugiyama
第5回WBCで「世界一」を奪還した侍ジャパンの報道が続いている。とりわけ4月26日で62歳となった栗山英樹監督の采配をめぐるニュースが目を引く。栗山監督は昭和の名将・三原脩が残した「三原メモ」と呼ばれるノートを読み込んで野球哲学を磨いてきたとされる。
野球史を紐解けば、三原脩(1911~1984)は早稲田大学時代に名内野手として知られ、巨人に入団。戦後は監督として巨人を戦後初優勝に導き、その後、西鉄に監督として迎えられ日本シリーズで宿敵水原茂の巨人を撃破、さらに大洋、近鉄、ヤクルトでも監督を歴任、最後は日本ハム球団社長も務め、1983年には殿堂入りした大野球人だ。
筆者の世代では眼鏡をかけた柔和そうな表情のヤクルトの監督、あるいは日本ハムの社長だった。しかしそれ以上のディテールは今では多くの人が知らない。では栗山英樹が師と仰ぐ野球人、三原脩とはどんな人物だったのか? 様々な文献をもとに、その足跡を追ってみよう(全2回/#2も)。
早慶戦で劇的なホームスチールを決めた
三原脩は明治末年、香川県の大地主の家に生まれる。11人きょうだいの10番目だったが、うち6人が早世し、実質的な末っ子として大切に育てられる。丸亀中学から名門高松中学に転校。兄の一人は東京帝大に進んでいたから父は脩にも帝大、官吏の道を歩んでほしかったが中学時代から野球に夢中になった脩は、1928年夏の甲子園でベスト4。早稲田大学に進んだ。
中学時代から有望内野手として知られていた三原は1年生から東京六大学野球に出場する。1931年春の早慶戦、二塁を守る三原は2試合連続でタイムリーエラーをして6万余の大観衆の非難を浴びた。2回戦の7回2死、2-2の同点の場面で四球で出塁、慶應の投手は水原茂。水原は続く打者にも四球を与え、さらに次の打者に死球を与え2死満塁。三塁走者・三原は次打者左打席の弘世正方の打席で本塁に突入しセーフ。この3点目が決勝点となった。
プロ野球のない当時の日本では、大学野球がトップリーグであり、早慶戦はその頂点ともいえる黄金カードだった。三原の劇的なホームスチールによる勝利は、早慶戦の歴史を彩る「名場面」として永く語り継がれることになる。
グラウンド内外で「日本野球のセオリー」ではなかった
しかし意気揚々と合宿所に引き上げた三原に冷水を浴びせたのは、ほかならぬ早稲田の大先輩で元監督の飛田穂洲だった。飛田は「(左打者の打席での)三原のホームスチールは全く定石外れの暴挙であり(中略)もし失敗に終わっていたら、その軽挙は早大を深淵の底に叩き込んでいただろう」と言い放った。