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三笘薫や田中碧は「ほぼ家族でした」…宮代大聖が川崎Fの先輩から学んだこと「薫くんは絶対に取られない」「アオくんの後ろにくっついて…」
posted2023/04/28 11:02
text by
いしかわごうGo Ishikawa
photograph by
KAWASAKI FRONTALE
川崎フロンターレU-10からのアカデミー育ち。年代別代表にも選ばれ続け、プロ契約を結んだのは高校3年生の4月だ。高校卒業を待たずにプロ契約を締結した選手は、クラブの歴史において初めてだった。
U-18時代に前線でコンビを組んでいた山田新の言葉が印象的だ。
「大聖は(実力が)抜け過ぎていたので、自分とは比較もされないぐらいの感じでした。悔しさもなかったですね」
宮代大聖とは、それほどの存在だった。
「言葉でいうほど簡単じゃない」移籍先での苦闘の日々
とはいえ、将来を嘱望された点取り屋も、全てが順調だったわけではない。
宮代が高校を卒業した2019年は、フロンターレがJリーグ2連覇を達成し、黄金期を築き始めたタイミングでもあった。エースストライカーである小林悠がキャプテンマークを巻き、ブラジル代表経験のあるFWレアンドロ・ダミアンもやってきた。前線はリーグトップクラスの激戦区で、若手の宮代に出場機会は巡ってこなかった。
宮代は貪欲に出番を求めた。19年のシーズン途中に、J2のレノファ山口FCに期限付き移籍。その後も期限付き移籍を繰り返し、21年には徳島ヴォルティスで7得点、22年にはサガン鳥栖では8得点と、J1クラブを渡り歩き得点感覚を研ぎ澄ましてきた。
アカデミー時代から川崎の空気を吸ってきた若い宮代にとって、毎年違う環境に飛び込んで数字を残し続けることは容易ではなかっただろう。「まあ、言葉でいうほど簡単じゃないなと感じましたね」と振り返るその口ぶりには、実感がこもっていた。
「チームの環境、地域の環境に慣れるのも大変でした。自分のことを知らない選手が多いし、移籍した先に知り合いがいたわけでもなかったですから。基本的に0人か、知っていても1人とか、そういう状態でした。もちろん、新しい監督や新しい選手と、新しい戦術を吸収しながらプレーするのは刺激になりましたね」
では、どうやって適応していったのか。
答えはシンプルだった。知られていないのなら、知ってもらうしかない。キャンプから積極的にチームメイトに話しかけ、お互いの特徴と感覚を擦り合わせた。すると味方のパスに合わせやすくなり、自分のゴールも生まれるようになっていった。